哲学部(読み)てつがくぶ

大学事典 「哲学部」の解説

哲学部
てつがくぶ

教養学部から哲学部へ]

ヨーロッパの大学は,中世に成立して以来,神学部,法学部医学部の上級三学部(ヨーロッパ)と,教養学部(ヨーロッパ)(facultatis atrium[羅])という名称の下級学部(ヨーロッパ)から構成された。H. シェルスキー,H.(Helmut Schelsky, H.)は,教養学部について次のように述べている。

 「バカラリウス(ヨーロッパ)(baccalarius)というのは最も低い学位号であって,それは教養学部,つまり自由七科(ヨーロッパ)課程を修了したことを証明するものであった。この教養学部での勉学上級学部,すなわち神学部,法学部および医学部においての専門研究に進むための必修コースであったのである。」

 このように学生はまず教養学部に入学し,「自由七科」すなわち文法,論理学,修辞学の三学と算術,幾何学,天文学,音楽の四科を学んだ。これらの科目は,すべてラテン語で授業が行われた。また講義にあたって基礎になったのは,アリストテレスの論理学であった。たとえば15世紀前半のケルン大学においては,全学生の7割以上が教養学部に所属した。そして2割が法学部に,その残りの学生が神学部と医学部にそれぞれ属していたにすぎなかった。学生の大部分は,およそ今日の中等学校が提供しているような,せいぜい中等教育程度の一般教養を大学で受けたにとどまったのである(シェルスキー)

 中世において,神学・法学・医学の各学部の予備門としての役割をはたしてきた「教養学部」は,近世に入りギムナジウムの発達とともに教授内容のかなりの部分をギムナジウムに移行し,その教育水準の向上をはかることで,名称も「哲学部」と呼ばれるようになった。中世大学(ヨーロッパ)において「哲学は神学の婢」(philosophia ancilla theologiae[羅])と呼ばれたが,哲学の地位がしだいに高まってきたことがうかがえる。19世紀には,ドイツのすべての大学の教養学部が哲学部と呼ばれるようになったとされる。こうして四つの学部,すなわち哲学部・神学部・法学部および医学部をもっている組織が,その後の伝統的な大学モデルとなった。

[ドイツの哲学部のコぺルニクス的転回

神学,法学,医学が上級学部,哲学部は他の三学部の下位学部という関係を逆転させたのはドイツ観念論の哲学である。そのなかでもカント,I.は,『諸学部の争い』(Der Streit der Fakultäten)という作品のなかで次のように言っている。

 上級,下級という学部間の区別は,学問の中身による上下ではない。それは政府との関係によるものである。「政府は神学部を通じて国民の永遠の幸福に,法学部を通じて国民の市民的幸福に,また医学部を通じて国民の肉体的幸福に配慮する。それによって政府は,国民に対する支配を確立することができる。」 その結果,政府は三学部の講義内容を規制し,これら学部は政府に従属せざるをえないことになる。これに対し「哲学部は政府の命令から独立的である。哲学部は学問的関心に従事する自由をもっており,そこでは理性が公に語る権利が与えられている。なぜなら理性はその本性上自由であり,こうした自由なしには,真理は現れることができないからである。」

 このように哲学部は,「理性の立法」にのみしたがう自由な学部である。たしかに国家権力との関係,権力との結びつきという点では,神学,法学,医学は,哲学よりも上級の学部かもしれない。しかし,理性による真理の探求という見方をすれば,哲学部こそが大学の中心学部である。政府に従属している上級学部の教義,教育内容を「理性」によって検証することが,哲学部の仕事であり,それはまた義務である。そう考えれば,哲学部は上級学部よりも上位に立っているといえる。政府との関係においても,政府が行うことを,理性によりチェックするのが哲学部である。

 哲学部が従来とは逆に,他の上級三学部を支配する地位を占めるべきであるという「哲学的大学」の理念は,その後19世紀に入りベルリン大学(ドイツ)の創設のなかに色濃く反映されている。ベルリン大学総長を務めたフィヒテ,J.G.は,次のように大学には哲学部以外の学部は不必要ともとれることを言っている。「多くの専門科目(神学,法学,医学)の中には,学問的技法(Kunst)には属しないで,実生活への応用のため多種多様の実際的技法に属するものが含まれている。こうした実用的技法の部分はわれわれの高等教授施設からはとり除いた方がよいのである。そのためには別の,それを目的とした機関を設けるべきである。」

 以上見てきたような意味で,学部の上下関係の逆転は「哲学部のコペルニクス的転回」とも言われている。

[現在のドイツと日本]

20世紀前半までのドイツの伝統的な大学は,上述の4学部に自然科学部が加わり5学部が一般的となった。その後,哲学部と法学部の一部が分離する形で社会科学部,経済学部,自然科学部から工学部,農学部なども生まれ,現在のドイツの大学は,さらに細分化された学部構成が採用されている。また,部門(ドイツ)(Abteilung)や専門領域(ドイツ)(Fachbereich)を置いている大学も見られる。日本は明治時代に帝国大学を発足させた際に,ドイツの大学をモデルとしたとされているが,学部構成においてはドイツのそれとは異なっていた。ドイツの総合大学は,哲学部を中心に法学,医学,神学という原理的研究を行う学部のみから構成されていたのに対し,日本の帝国大学には工学部,農学部,さらには経済学部などの応用的学部が置かれていた。また,日本では「哲学」は文学部のなかの「哲学科(日本)」として位置づけられ,学部として存在することはなかった。
著者: 木戸裕

参考文献: ヘルムート・シェルスキー著,田中昭徳,阿部謹也,中川勇治訳『大学の孤独と自由―ドイツの大学ならびにその改革の理念と形態』未来社,1970.

参考文献: 角忍ほか訳「諸学部の争い」『カント全集18』岩波書店,2002.

参考文献: フィヒテ「ベルリンに創立予定の高等教授施設についての演繹的プラン」,梅根悟訳『大学の理念と構想』明治図書出版,1970.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報