和泉新田(読み)いずみしんでん

日本歴史地名大系 「和泉新田」の解説

和泉新田
いずみしんでん

[現在地名]木曾岬村和泉・さかえ

鍋田なべた川の西岸にあり、北は見入けんにゆう新田、西に東対海地ひがしたいがんじ小林こばやし新田がある。元禄八年(一六九五)の和泉新田開発由来書(源盛院蔵)によれば、開発者は尾張の豪農富田彦兵衛で、この辺りの葭の茂る地を見て開拓の志を起こし、慶安二年(一六四九)長島ながしまに居を移し、承応二年(一六五三)ようやく許しを得て同年一月中旬より開発に着手、男女五四人、牛馬四疋で耕作したが、同三年は大旱魃で米一粒もなく、翌明暦元年(一六五五)は八月四日大風で潮入り、九月から一〇月三日までかかって潮留をした状況であった。

和泉新田
いずみしんでん

[現在地名]加治川村湖南こなん

北は砂山すなやま新田・奥村おくむら新田、東・南は小島新おじましん村。享保二〇年(一七三五)検地紫雲寺しうんじ潟新田の一村で、後願人船入ふないり新田(現新発田市)重蔵の請地である。元文元年(一七三六)の検地帳写(大坂銀六氏蔵)によれば、高五〇二石七斗余・反別四五町七反余、ほかに除地として廟所・葬場・社地などがあり、総反別は四五町九反余。飛地は旧潟西縁の長島ながしま新田(現紫雲寺町)中に二ヵ所あり、畑・宅地・林である。

和泉新田
いずみしんでん

[現在地名]大潟町和泉新田

北は高橋たかはし新田、南は下増田しもますだ新田(現頸城村)に接する。寛文元年(一六六一)から延宝六年(一六七八)にかけて行われた大潟新田開発によって成立した新田。開発高は一九九石八斗余(笠原家文書)。文政七年(一八二四)の五人組帳(明治大学刑事博物館蔵)によれば家数七(うち本棟二・名子棟五)・人数四九(男二九・女二〇)、馬数二。

和泉新田
いずみしんでん

[現在地名]印西市いずみ原山はらやま

惣深そうふけ新田の西に位置。泉新田とも記された。もと印西牧の一部で、寛文一〇年(一六七〇)惣深新田の請負人であるひれさき(現流山市)の清重郎らは、開発をめぐり対立していた一六村に入会の惣深野の一部を分与、これを和泉村切添として開いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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