和久浦(読み)わくうら

日本歴史地名大系 「和久浦」の解説

和久浦
わくうら

[現在地名]豊北町大字神田上 和久

ひびき灘に西面する漁村で、南に続く矢玉やだま浦・二見ふたみ浦と同様に、夏季南西の季節風は強く受けるが、冬季北西の季節風はつの島によってやわらげられる。したがって回遊魚は地先に来遊することはあったが、地先水面を利用する捕鯨・大敷網などには有利でなかった。

伝承によると大内氏の残党が角島に逃れ、のち島内たいの浦の者が後年対岸のこの浦に移住したという。

江戸時代萩藩領に所属し、「地下上申」では神田中かんだなか村の内であったが、その後神田上かんだかみ村に所属した。「地下上申」では海上石は一五石七斗九升八合(浦立銀一五七匁九分八厘)で、ほかに水夫銀六四匁八分四厘、門役銀七一匁四分、諸漁初穂銀二〇匁があった。また俵物として塩煮貝三八五斤余、煎海鼠三七三斤余を長崎俵物方へ上納した。萩御蔵元へは鯣六〇連、雲丹二斗を上納、寄鯨の際は売払代の半方、または三分の二を上納した。

漁場は主として角島回りで行われ、角島には浦石が二一石五斗定められ、島戸しまど浦・矢玉浦・和久浦の負担であったが、このうち本銀四三匁が和久浦の負担であった。矢玉浦はのちに角島回りの漁場を放棄したため、角島沿海は島戸浦・和久浦の専用漁場になった。

和久浦は元和四年(一六一八)肥中ひじゆう双子ふたご島で鯛葛網を始め、寛永四年(一六二七)には、小串こぐし(現豊浦町)漁夫が和久浦で鯛葛網を使用した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報