名古屋村(読み)なごやむら

日本歴史地名大系 「名古屋村」の解説

名古屋村
なごやむら

[現在地名]鎮西町大字名護屋なごや野元のもと

東松浦半島北西部に名護屋湾が深く入り込んで他村との境をつくり、波戸はど岬の基部をなす。全地区は標高一〇〇メートルに満たぬ丘陵地で、水利に乏しく耕地の大半は畑作地。

神功皇后伝説に関して松浦廟宮先祖次第並本縁起に「名草なぐさは今の名護屋なり」とあり、「松浦家世伝」に「平安末期、奈古屋二郎授、名護屋に居住す」とある。しかし、いずれも藩政期の記録であり、真偽は定かでない。古代から中世にかけて、この地一帯は大陸への渡来地と考えられるが、遺跡はほとんど発見できない。

比志島文書の弘安九年(一二八六)閏一二月二八日付の書状に「武藤五郎左衛門尉経平法師 肥前国那久野村地頭職、豊前前司景資跡」とある那久野村は名古屋村に比定できる。以来この地は武藤氏の流れをくむ名古屋氏に支配され戦国末期に至る。那古野なごや・那護野と書かれた文献もある。

応永二年(一三九五)銘入りの対馬豆酸つつ(現長崎県下県しもあがた厳原いずはら町)多久頭魂たくつたま神社観音堂の鐘銘に「那久野」とあり、「海東諸国紀」に「丙戌年遣寿藺書記来朝書称肥前州上松浦那久野藤原頼永」とあり、同じく「丁丑年遣使来朝書称肥前州上松浦那護野宝泉寺源祐位」ともあるので、室町中頃までは那久野・那護野と称していた。しかし慶長三年(一五九八)一〇月二二日付御弓鉄砲衆惣中宛五大老書判状には「名護屋」が使われ、鍋島直茂譜考補所載には「名古屋御陣場之次第」と記される。

名古屋村
なごやむら

[現在地名]西区上名古屋かみなごや町・上名古屋一―二丁目・城西じようさい二―五丁目・花の木はなのき一―四丁目・数寄屋すきや町・樋の口ひのくち町・馬喰ばくろ町・上浅間かみせんげん町・下浅間しもせんげん町・浅間町・南鷹匠みなみたかじよう町・堀詰ほりづめ町・六句ろつく町・外田そとだ町・小舟こぶな町・藪下やぶした町・江戸屋えどや町・枝郷えだごう町・新道しんみち町・菊元きくもと町・南駅なんえき町・奉公人ほうこうにん町・北駅ほくえき町、北区柳原やなぎはら町・深田ふかだ町・清水しみず一丁目、東区百人ひやくにん町、中区新栄しんさかえ一丁目

名古屋を行政区画の村名としたのは、慶長一八年(一六一三)頃終了する清須きよす越し以降である。名古屋城の西と北の崖下に広がる村落である。

名古屋村
なごやむら

[現在地名]真野町名古屋

小佐渡山麓台地上にあり、吉岡よしおか村と入会う小村。吉岡地内に飛地状に住家が点在する。戦国期に吉岡地頭の支配下にあった三宮さんぐう(現畑野町)の村殿に、名古屋の地を割いて与えたという伝承がある。もと吉岡村のうちで、戦国期頃独立したのであろうか。地名は吉岡地頭の「根小屋」から出たものか、あるいは三宮の殿様であった名古屋四郎安藤との関係を示したものか。当村は近世に現畑野はたの町との境の合沢ごうざわと称する地に竹田たけだ村・大川おおかわ村・吉岡村とともに入会地をもっており、以前は国仲くになか低地帯に居住していた四ヵ村の人々が、居住地付近の水田開発のため台地上に移り、合沢なる入会地を作ったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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