古座浦(読み)こざうら

日本歴史地名大系 「古座浦」の解説

古座浦
こざうら

[現在地名]古座町古座

古座川河口左岸に位置。北は中湊なかみなと村、東方は津荷つが村に接し、西は古座川を隔てて西向にしむかい浦に臨み、南は熊野灘に面する。熊野街道大辺路筋と古座街道との分岐点にあたる。鎌倉時代末期頃潮埼しおざき(現西牟婁郡串本町)に居住した熊野の土豪高川原(高瓦)氏の子孫高川原摂津守貞盛とその子帯刀家盛が、戦国時代に古座浦域に城砦を構え、下里しもさと(現那智勝浦町)以西古座付近一帯を領したといわれる(「高瓦氏家譜」青原寺蔵)。天正九年(一五八一)三月三日付の刑部法眼・少進法橋連署書状(「続風土記」所収善照寺文書)に「コザ山本善吉」の名がみえ、年不詳一二月一一日付の益田少将書状(同文書)に「小さうら」とある。

古座川河口の港として発達し、元禄年間(一六八八―一七〇四)の「熊野独参記」には「在所の中程札ノ辻より神野川浦へ船渡し有り、但入湊也」とみえる。村名の由来を「続風土記」は「村の西に神ノ川村あり、古座疑ふらくは神座の転にて、これも又重山滝姫神によりし名ならん」と記し、滝姫神を祀る滝姫たきひめ神社(現重山神社)神野川このがわ村西北方の重畳かさね山に鎮座する。

慶長検地高目録に「古座村」として高一八石余、「続風土記」には高三二石余、家数三一五、人数一千二四二とある。古座組に属し、慶安三年(一六五〇)の古座組在々郷組之覚(古座町教育委員会保管)には組頭とされ、組制度による動員体制として、家数一五三、人数三四六、通り印判三、舟八〇余、鉄砲七丁を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報