南明寺(読み)なんめいじ

日本歴史地名大系 「南明寺」の解説

南明寺
なんめいじ

[現在地名]増穂町小林

利根とね川の左岸に位置する。補陀山と号し、曹洞宗本尊聖観音。慶応四年(一八六八)当寺が提出した由緒(寺記)によると南北朝期に創建され、甲斐国内曹洞宗三派の代表的寺院七ヵ寺をさして称する常法幢七ヵ寺の一。曹洞宗開祖道元とともに曹洞宗二祖と称せられた能登総持寺開山瑩山紹瑾嫡嗣である加賀国守護富樫氏の苗胤明峰素哲が行脚の途中、当地に草庵を結んで開山となった。明峰の名声は後醍醐天皇にも聞え、元応年間(一三一九―二一)勅詔をもって招こうとしたが、明峰は病を理由に応じなかったという。元亨年間(一三二一―二四)に瑩山紹瑾の命により能登国永光ようこう(現石川県羽咋市)住職に転じ、弟子の雪山玄果が師の跡を継いで第二世となったという(同由緒)。しかし実際には、当寺は明峰の法嗣雪山が当地の領主大井春明に招かれ、師を開山として請い創建した(「増穂町誌」など)

南明寺
なんみようじ

[現在地名]萩市大字椿

南明寺山の北側中腹に位置する。天台宗。日輪山と号し、本尊は聖観音。

「注進案」の記す寺伝によれば、古くは修験山伏の住する寺であったという。しかしこの時代の南明寺の様子はつまびらかでなく、おそらくは裏にそびえる南明寺山中に修験行場があったものと思われる。毛利輝元の萩入府によって、氷上山興隆こうりゆう(現山口市)の脇坊であった仁乗にんじよう坊の源康法印が招かれ、慶長一一年(一六〇六)南明寺住職に任じられた。この時、修験寺院から天台宗に改め、比叡山延暦えんりやく寺末、氷上山真光しんこう院となり、源康は南明寺開山となったという。

南明寺
なんみようじ

[現在地名]奈良市阪原町

阪原さかはら町の街道沿いの小丘上にある。医王山と号し、真言宗御室派。本尊薬師如来。寺伝によれば宝亀二年(七七一)創建の槇山まきやま(巻山)千坊の一坊という。「大和志」に「南明寺 在阪原村正堂一宇安置三大仏像上梁文曰宝亀二年建今呼槇山千坊坊廃」とある。槇山千坊は当地の北西方にあったと伝えられるが、寺跡は確認されていない。本堂は桁行五間・梁間四間、寄棟造・本瓦葺で、鎌倉中期と考えられ、国指定重要文化財。昭和一一年(一九三六)の修理にあたり建物の地下が調査されたが、この堂の建立年代をさかのぼり得る古瓦や堂舎跡などは出土していない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報