椿西分(読み)つばきにしぶん

日本歴史地名大系 「椿西分」の解説

椿西分
つばきにしぶん

[現在地名]萩市大字椿 霧口きりぐち大屋おおや笠屋かさや河内こうち濁淵にごりぶちの各全域、および大字椿 青海おうみ沖原おきばら金谷かなや雑式ぞうしき町の各一部

城下町の南の出入口にあたり、村の中央を南北に御成道、北を東西に赤間関あかまがせき街道(北浦道筋)が通る。大部分が山地で、東南に南明寺なんみようじ山、西に茶臼ちやうす山など三〇〇メートル級の山々に囲まれ、集落は、北東椿東分つばきひがしぶんと境する阿武あぶ川下流域の平野部と、村内中央を北流する大屋川流域にある。南は阿武郡の明木あきらぎ(現旭村)。当島宰判所属。

和名抄」に記される古代の椿木つばき郷の地とされ、山陽道と山陰道を結ぶ陰陽連絡路が村内のほぼ中央を南北に通っていたといわれる。地名の由来を「地下上申」は

<資料は省略されています>

とし、古くから祇園社(現椿八幡宮境内末社)が祀られていたという。大井の明光おおいのみようこう山出土の康和四年(一一〇二)の経筒銘に施主椿武則とあり、椿の地名を冠する当地方の豪族であったと思われる。

慶長一五年(一六一〇)検地帳では「椿郷」、寛永三年(一六二六)の熊野帳では「椿東西」、元禄一二年(一六九九)の郷帳では「椿村」と記され、江戸時代中期の「地下上申」に至って椿西分・椿東分に分れる(→椿東分

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報