北音羽村・南音羽村(読み)きたおとばむら・みなみおとばむら

日本歴史地名大系 「北音羽村・南音羽村」の解説

北音羽村・南音羽村
きたおとばむら・みなみおとばむら

[現在地名]桜井市大字北音羽きたおとわ・南音羽

音羽おとば山西北麓に所在。西は村。慶長郷帳の村高は北音羽村が七九・七八八石、南音羽村が一二七・二七石。両村とも江戸初期は幕府領(代官楢村監物)、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され、廃藩置県に及んだ。

北音羽村は寛文四年(一六六四)名寄帳(生田の高瀬家文書)によれば、水田一町六反、畑地四町歩の典型的な山村で、「宗国史」によると戸数二二、人口一三八、牛三であったが、幕末には一六、七軒に減少。

南音羽村は「音羽ながれ」という大雨による山崩れが再三あったと伝えられ、こうした天災のため戸口は減少の一途をたどり、江戸初期に四八軒、二二一人が享保(一七一六―三六)頃に二九軒、一二〇人、牛九疋(宗国史)となり、安政期(一八五四―六〇)には二五軒となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報