北野新田村(読み)きたのしんでんむら

日本歴史地名大系 「北野新田村」の解説

北野新田村
きたのしんでんむら

[現在地名]福井市新田三ケしんでんさんか

九頭竜くずりゆう川南岸に沿う新田村で、寛永四年(一六二七)に開発された。新田三ヶ村とも称し、上・中・下の三村に分れる。福井藩領。

開発の経緯については、「越藩史略」寛永四年条に「是歳北野新田の三邑を開く。高千百余石、元有北野上下二村、今開新田上中下三村、其上新与下村居、高千百七十五石共居黒竜川辺」とあり、また「越前国名蹟考」は享保書上を引いて「北野上村・下村・大和田村寺前村・河合新保村、尤六ケ村之田地年々川欠之跡附寄或川付替り古河之跡有之、宝永七年改開発候様申付住居するの由」と記す。

北野新田村
きたのしんでんむら

[現在地名]篠山市北野新田

北野村の北に位置し、南に大山おおやま川、北に薬師やくし川が流れる。大坂と京都に通じる道が分岐する。承応三年(一六五四)北野村から分立したという。「丹波志」に大山庄大山下のうち北野新田とみえ、高七八石余。「多紀郡明細記」に大山下村のうち「北野新村」とあり、高七八石余、山役米六斗、水車碓六。明和三年(一七六六)当時街道筋に五軒の宿があったが、宿駅以外での旅人の宿泊をよしとしない追入おいれ宿は当地に見張番を付けたうえ、従来の禁制を厳守するよう出願している(安井家文書)。しかしこれが履行されることはなく、文化一二年(一八一五)には篠山城下の町方惣代中から止宿が減って難渋しているという訴えが出ており、代官所は今後違背した者は吟味のうえ咎を申付けると触れている(園田家文書)

北野新田村
きたのしんでんむら

[現在地名]見附市北野町

傍所ほうじよ村の北。正保国絵図に高五〇石余、村松藩領。正徳四年(一七一四)の葛巻組田畑家数覚帳(見附地方史研究会蔵)では田三町四反余・畑二町三反余、本百姓三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報