北ノ庄村(読み)きたのしようむら

日本歴史地名大系 「北ノ庄村」の解説

北ノ庄村
きたのしようむら

[現在地名]五個荘町宮荘みやしよう

五位田ごいで村・簗瀬やなぜ村の南、七里しちり村の東にある大村で、東西に広がる矩形の村域をもつ。村名は山前北やまさききた庄にちなみ、弘安七年(一二八四)六月の尼正戒田地売券(三浦周行氏所蔵文書)に「神崎東郡山前北庄」とみえる。永正一六年(一五一九)には「北之しやう里」一円の道者職等が計二五貫文で売渡されている(同年二月七日「伊勢道者売券」輯古帖)。永禄三年(一五六〇)浅井長政と六角承禎父子の戦いの際、「北之庄三人衆」といわれた川副兵庫守・宇野因幡守・辻伊賀守は六角氏に反旗を翻し、長政の部将赤田定興を大将として当地に籠城した(温故録)

北ノ庄村
きたのしようむら

[現在地名]奈良市北之庄きたのしよう

南永井みなみながい村の西にある。「日本後紀」弘仁元年(八一〇)九月一二日条に「添上郡越田村」、「日本霊異記」「今昔物語集」に「越田の(ノ)池」とみえ、「南都巡礼記」には「カモサカ(加茂阪)ノ南コシタノ池」とあるので、「越田村」は現北之庄町付近に該当する。「大乗院雑事記」文明一二年(一四八〇)五月二八日条に「能登岩井両川用水(中略)至昨日越田尻庄ニ令引漑了、今日間水也、自明日神殿給之」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「箕田 越田尻庄 添上郡」などと記す「越田尻庄」は北之庄(方位荘名)西部のことか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報