勝田村(読み)かちだむら

日本歴史地名大系 「勝田村」の解説

勝田村
かちだむら

[現在地名]港北区勝田町

都筑つづき郡に属し、東より北へ大棚おおたな村、東は吉田よしだ村、南は新羽につぱ村、西は東方ひがしがた(現緑区)茅崎ちがさき村に接する。東にまる山、南にへび山、南東に玄蕃げんば山があり、南の八段はつたん山と東に雑木林がある。早淵はやぶち川が東流し、当村と大棚村との間の早淵川に勝田橋が架かる。溜井三ヵ所のほか権太ごんた池がある。中原なかはら道が南北に通る。

承元三年(一二〇九)の某家政所下文(県史一)に「可令早徴納郷々五升米事」に「勝田」がある。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)に「都筑こつくへ之庄内」の一ヵ所に「かちた」とみえる。

慶長四年(一五九九)三月の久志本常範への知行書立状(県史八)に「弐百五石三斗六合 鍛冶田郷」とあり、以来旗本久志本領。宝永五年(一七〇八)五月の勝田村高反別家数人数書上帳(同書)で田一二町七反余、畑一五町六反余。寛保三年(一七四三)には神奈川宿(現神奈川区)助郷を勤めているが、連年の水難に苦しみ助郷免除願(関文書)を出した。寛文一三年(一六七三)四月の山荒し取締総百姓連印手形(県史八)によると、山改にあたり、古山では木・茅草・下葛を荒さないこと、荒した者は木・茅の分過銭一貫文、下葛の分一籠に付き三〇〇文、違犯者を見逃したら当人と同等の過銭、訴人には褒賞として過銭を取らすと定めている。

勝田村
かつたむら

[現在地名]八千代町勝田

土師はじ村の南に位置し、村の東境を可愛えの川が流れる。対岸は長屋ながや上入江かみいりえの両村(現吉田町)、西は佐々井ささい村。「芸藩通志」に「昔かり田と呼びしといふ、倭名抄に載る刈田なるべし、広十一町・袤五町余、南北に高山あり、東西はひらけて村中平夷なり、上根川西より来り、郷中を通じ東の大川に入る、民産、耕作山業相半す」とあるように、南西より簸川ひのかわが流下し、村の東端で可愛川に合する。集落はこの川沿い山際にある。この簸川沿いに雲石路が通る。

和名抄」に記される高宮たかみや苅田かつた郷の地とされ、苅田郷は嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)に、壬生みぶ(現山県郡千代田町)の四至のうちに「限東多治比苅田簗原堺」と記される。

勝田村
かんだむら

[現在地名]米子市勝田町・東山町ひがしやまちよう博労町ばくろうまち四丁目

米子城下町の東にある。ほぼ東西に出雲街道が走り、西は博労町に続く。「民経記」天福元年(一二三三)五月巻の紙背文書の年月日未詳某書状断簡(東洋文庫蔵)にみえる「伯州勝田庄」を当地一帯にあてる説がある。

近世には米子町枝郷で、拝領高一五一石余、本免四ツ五分。米子荒尾氏の給所(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一九石余、竈数四二。「伯耆志」の家数四三・人数一七八、社倉が設けられ、製造品は瓦、北東部に御立山があった。天保三年(一八三二)には山林五町余。藪役銀四匁を納めていた(藩史)。当村に山奉行が置かれ、享保一〇年(一七二五)より在中下吟味役兼帯となった。

勝田村
かちだむら

[現在地名]嵐山町勝田

広野ひろの村の北、なめ川右岸の丘陵と低地に位置し、東は伊子いこ(現滑川町)、西は越畑おつぱた村・吉田よしだ村。地名の由来は良質の水田の意であるとか(嵐山町誌)、「かつ」田の転で真菰の自生する田の意である(埼玉県地名誌)とかいわれる。松山まつやま領に属した(風土記稿)。東方の菅田すがだ(現滑川町)は当村の枝郷であったが、安永五年(一七七六)に分村したという(「郡村誌」など)。「吾妻鏡」建久四年(一一九三)二月一〇日条によると毛呂太郎季綱が武蔵国「勝田」などを賜っている。

勝田村
かつたむら

[現在地名]玉城町勝田

田丸城下の西南にある。集落は台地の末端にあり、西を三郷さんごう川が流れその氾濫平野が西から北に広がり、西は谷底平野となっている。狩田・苅田とも記し、「五鈴遺響」は「加理太ノ訓アリ、今加津多ト称ス」と記す。狩田は、久寿元年(一一五四)一二月二七日付の沙弥某田地売券写(光明寺古文書)に「狩田村十三条七市九里十二坪」とあるが、条里制遺構は検出されていない。

勝田村
かつたむら

[現在地名]青森市勝田一―二丁目・中央ちゆうおう四丁目・松原まつばら一―三丁目・橋本はしもと三丁目の各一部

青森町の東南浦町うらまち村に接する。

大坂落城による落人工藤半三郎が開墾した新田にはじまるという(青森市史)。貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以降の新田として高六五〇・四石とある。貞享四年の検地帳によれば田方三八町五反二畝一九歩、畑方四反二〇歩、田畑屋敷合せて三八町九反三畝九歩、村高二六一・〇一六石とある。

勝田村
かつたむら

[現在地名]八千代市勝田・勝田台かつただい勝田台南かつただいみなみ一―三丁目

村上むらかみ村・下市場しもいちば村の南に位置。しん川東岸に位置するが、近世中期以降千葉郡に属した。寛永二年(一六二五)知行宛行状葛飾かつしか郡として村名がみえ、八三石余が旗本石尾領になっている。同一四年に検地が行われ、延宝六年(一六七八)と同八年の新田を加えた反別一七町九反余、田一二町二反余・畑五町三反余・屋敷四反余(「検地帳写」宮崎家文書)

勝田村
かつたむら

[現在地名]門前町勝田

走出はしりで村の西、はつヶ川下流北岸の段丘に立地。村名は往古鳴小なるこ谷と称する奥地にあった勝田寺に由来するという(能登志徴)。南北朝期、当地に足利尊氏に属した得江氏の家臣勝田左衛門五郎が住したといい(同書ほか)的場まとば定谷じようだんくちなどの地名が残る。正保郷帳では高二六石余、田方九反余・畑方七反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報