勝瑞村(読み)しようずいむら

日本歴史地名大系 「勝瑞村」の解説

勝瑞村
しようずいむら

[現在地名]藍住町勝瑞

現藍住町の東端を占める。東は高房たかぼう(現北島町)、北は市場いちば村・川崎かわさき(現鳴門市)の一部を挟んで吉野川(現旧吉野川)が流れる。近世中期までは同川は勝瑞村と市場村の境に沿った流路となっていた。南は東貞方ひがしさだかた村・西貞方村(現徳島市)、室町時代には勝瑞城が築かれ、城下に町場が形成された。大永七年(一五二七)二月二日の三好元長寄進状(見性寺文書)に「井隈之内勝瑞分壱町壱段、但寺家廻すけたうの内竹田孫次方知行分」とあり、一町一反が見性けんしよう寺に寄進された。「昔阿波物語」によれば、十河存保が勝瑞城に在城していた天正八年(一五八〇)から同一〇年頃、勝瑞の町の市場では在郷の者の商品が大人数盗賊により奪い取られる事件が多発した。町人らは堅木の棒で武装してこれに対抗し、盗賊を追払いその大将日下又之進を捕らえたが、盗賊の同類二千人ほどが大将奪還のため押寄せ合戦となった。だが十河存保は部下に盗賊の同類が多く含まれていることからなんの対策もとらず、町人らの難儀は同一〇年阿波に下向した三好康長が又之進を討つまで続いたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報