前村(読み)まえむら

日本歴史地名大系 「前村」の解説

前村
まえむら

[現在地名]大山町前

鈑戸たたらど村の北東、阿弥陀あみだ川と鈑戸川の合流点南にある。村名は鈑戸村の分村で、前のほうに新しくできた村だからとされるが確証はない(大山町誌)。大山領で汗入組に属した。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では高一八四石余(鳥取県史)。延享三年(一七四六)の御巡見様手鑑(吉川家文書)によれば高のうち年々水流荒一二石余・畑高一七石、新開田畑一〇石余。家数二二・人数一四八(男七八・女七〇)、牛二八・馬二。天保三年(一八三二)の大山領郷村高帳(県立博物館蔵)では新開田畑八石余、山林一ヵ所・四反余。

前村
まえむら

[現在地名]温泉町前

宮脇みやわき村の南にあり、集落岸田きしだ川左岸の山麓に発達。南は石橋いしばし村。北東の塩山しおやま村から寸原すんばら峠を越えて当村に入り、岸田川沿いに北上して千谷ちだに村で山陰道に合流する間道が通っていた。当地正楽しようらく寺蔵の応永三五年(一四二八)三月八日銘の鰐口に「二方郡八太庄前村薬師堂勝楽寺鐘」とみえる。文明三年(一四七一)の八太庄領家分米銭納帳写(中村文書)に「まへ村」「政所屋敷銭在所まへ村」などとあり、また中村助右衛門の名がみえる。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」にも「まへ村」とあり、当地には「将監殿」「中村八郎三郎殿」などが住んでいた。

前村
たるまえむら

[現在地名]苫小牧市字樽前

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三五年(一九〇二)三月までの村。勇払ゆうふつ郡の南西端に位置し、西側は別々べつべつ川を境に白老しらおい社台しやだい(現白老町)、東は覚生おぽつぷ川を境に覚生村に接し、北は樽前山麓の山林地帯、南は太平洋に臨む。村内中央を樽前川が流れる。近世はタルマイとよばれ、鮭漁や鰯出稼漁場として栄えた(苫小牧市史)。明治二年八月に土佐高知藩の支配地となり、出羽米沢藩士の宮島幹は「北行日記」同三年九月一五日条に「ホンタルマイ土人小屋十四、五軒、川アリ、此川ハ樽前岳ヨリ出ルト云フ、此辺ハ尽ク出稼小屋ノミニテ永住人家所々ニ壱、弐軒アリ、ヘツヘツ人家二、三軒アリ、此処勇払郡・白老郡ノ境ニテ、高知藩ト一ノ関藩支配地ノ境ナリ」と記している。

前村
まえむら

[現在地名]多気町前村

五桂ごかつら村および平谷ひらだに村の西にある。佐奈さな川が集落の中を東に流れ、それに沿って和歌山別街道・熊野街道が走る。村の南西端に井戸谷いどだにの集落があり、村の南西はずれに周囲七三五センチの大楠がある。「皇太神宮儀式帳」に「真久佐牟気草向国」と記されている。当村字名六六のうち、谷のつくものが三三ある。「神鳳鈔」に「内宮前村御薗一斗、十二月」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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