苫小牧村(読み)とまこまいむら

日本歴史地名大系 「苫小牧村」の解説

苫小牧村
とまこまいむら

[現在地名]苫小牧市錦町にしきまち一―二丁目・栄町さかえまち一―三丁目・大町おおまち一―二丁目・本町ほんちよう一―二丁目・幸町さいわいちよう一―二丁目・元町もとまち一―三丁目・浜町はまちよう一―二丁目・弥生町やよいちよう一―二丁目・矢代町やしろちよう一―三丁目・松風町まつかぜちよう青葉町あおばちよう一―二丁目・大成町たいせいちよう一―二丁目・新富町しんとみちよう一―二丁目・本幸町ほんこうちよう一―二丁目・見山町みやまちよう一―四丁目・高砂町たかさごちよう一―二丁目・花園町はなぞのちよう一―四丁目・北光町ほつこうちよう一―四丁目・啓北町けいほくちよう一―二丁目・寿町ことぶきちよう一―二丁目・白金町しろがねちよう一―二丁目・山手町やまてちよう一―二丁目・汐見町しおみちよう一―三丁目・旭町あさひまち一―四丁目・末広町すえひろちよう一―三丁目・若草町わかくさちよう一―五丁目・音羽町おとわちよう一―二丁目・双葉町ふたばちよう一―三丁目・住吉町すみよしちよう一―二丁目・泉町いずみちよう一―二丁目・美園町みそのちよう一―四丁目・日の出町ひのでちよう一―二丁目・新中野町しんなかのちよう一―三丁目・元中野町もとなかのちよう一―四丁目・港町みなとまち一―二丁目・船見町ふなみちよう一―二丁目・入船町いりふねちよう一―三丁目・一本松町いつぽんまつちよう晴海町はるみちよう真砂町まさごちよう光洋町こうようちよう一―三丁目・字高丘たかおか・字丸山まるやま・字沼ノ端ぬまのはた表町おもてまち一―六丁目・王子町おうじまち一―三丁目・緑町みどりまち一―二丁目・木場町きばちよう一―四丁目・春日町かすがちよう一―三丁目・清水町しみずちよう一―三丁目・あけぼのちよう一―五丁目・新明町しんめいちよう一―五丁目・三光町さんこうちよう一―六丁目・明野元町あけのもとまち一―二丁目・柳町やなぎちよう一―四丁目・新開町しんかいちよう一―四丁目・明野新町あけのしんまち一―六丁目・有珠の沢町うすのさわちよう一―二丁目

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三五年(一九〇二)三月までの村。勇払ゆうふつ郡の南部西寄りに位置し、西は小糸魚こいとい村・錦多峰にしたつぷ村、千歳郡千歳村(現千歳市)、東は勇払村、北は樽前たるまえ山麓の山林地帯および植苗うえなえ村に接し、南は太平洋に臨む。村内東側を苫小牧川が流れる。近世はマコマイトマコマイとよばれた。明治二年八月に土佐高知藩の支配地となり、同三年出羽米沢藩の支配地調査に来た宮島幹は、「北行日記」同年九月一五日条に「辰の刻過勇払ヲ出立ス、壱里斗ニシテ、サツトフ人家二、三軒、出稼小屋七、八軒、マコマイ・トマコマイ人家一、二軒、出稼小屋所々ニアリ、此辺ハ多分鰯鮭ノ猟アル由」と記している。

苫小牧村
とまこまいむら

明治三五年(一九〇二)四月一日から大正六年(一九一七)一二月までの勇払ゆうふつ郡の村。樽前たるまえ村・覚生おぽつぷ村・錦多峰にしたつぷ村・小糸魚こいとい村・苫小牧村・勇払村・植苗うえなえ村が合併し、二級町村苫小牧村として成立。旧村名を継承し、七大字を編成した。同年苫小牧沿岸に鰯地引網八三権・鮭定置網一〇権、苫小牧川・勇払川・錦多峰川に河川鮭地引網八権の漁業権が設定された(「免許漁業権名簿」道立文書館蔵)。明治三七年アッペナイ(現在の字植苗のうちで、勇払川上流の地)・樽前にマッチ軸木工場が立地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報