内平村(読み)うちびらむら

日本歴史地名大系 「内平村」の解説

内平村
うちびらむら

[現在地名]野津町とまり 内平

泊村の東、ニガキの台(五六五・三メートル)南西麓に位置し、垣河内かきがわち川が南をほぼ西へ流れる。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には内平村が泊り村など七ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では川登かわのぼり村のうちに含まれる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三五石余・出来高五石余、田方二八石余・畑方一一石余。正保郷帳では野津之院に属する。

内平村
うちひらむら

[現在地名]安浦町内平

野呂のろ山の東北麓に位置し、山がちの地勢ではあるが、北東には耕地が開ける。西は中畑なかはた村、南は中切なかぎり村に接する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には「打平村」として高一二八・二三石とあるが、広島藩御覚書帖には内平村とある。「芸藩通志」は田畝一四町二段三畝余とし、高は変化がない。

内平村
うちびらむら

[現在地名]三重町伏野ふせの 内平、清川きよかわ村伏野

中津無礼なかつむれ村の南、北流する中津無礼川流域にある。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳に村名がみえ、田方三二石余・畑方二六石余、白谷しろたに郷に属し、茅山有、日損所と注記される。安永七年(一七七八)には中津留組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。中津無礼川西岸の犬鳴いんなきは正保郷帳に犬鳴村とみえる。

内平村
うちひらむら

[現在地名]大月町芳の沢よしのさわ

福良ふくら川に東流して流れ込む支流上流の村。芳ノ沢村の南に位置する。村名は天正一七年(一五八九)の吉野沢村地検帳に吉野沢よしのさわ村を構成する一村としてみえ、検地面積六町七反余、屋敷数七うち居屋敷五。大半が依岡源兵衛給である。江戸時代の当村は芳ノ沢村の枝村で、元禄地払帳では同村に含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android