内坪井町(読み)うちつぼいまち

日本歴史地名大系 「内坪井町」の解説

内坪井町
うちつぼいまち

[現在地名]熊本市内坪井町・千葉城ちばじよう町・壺川こせん一丁目

茶臼山ちやうすやま台地およびその北側に連なる京町きようまち台地の東側崖下直下から、現坪井川に挟まれる形で開ける広い武家屋敷地帯。かつて坪井川の本流は現壺川一丁目四番地の流長りゆうちよう院前から大きく西に曲って京町台地の山麓を伝い、しん堀を経て千葉城台地の北を流れ、千葉城台地の東側を巡っていた。坪井川本流に対し防備を固め武家屋敷地帯を建設するため、流長院前から坪井川の分流として、暗渠形式で結ぶ各々一五〇―三〇〇メートルの三本の内堀をほぼ南北に作った。その南端は千葉城の北側で坪井川本流に合流する(合流点は現千葉城町五番地、城東小学校南端の六工橋の地点)。内堀は中央部がやや膨らんだ形となり、北側に一ヵ所堀と堀との間が切られて西外坪井にしそとつぼい町への通路となる。また南側にも一ヵ所堀と堀との間が切られて北新坪井町・坪井広丁への通路となる。この二つの通路には構門があり、内坪井は東の坪井地区からまったく分離されている。内堀の建設により、坪井川本流との間に南北に長い大屋敷地帯が建設された。

江戸時代は一帯が独立した武家屋敷地帯であったため総称的に内坪井と称した。明治六年(一八七三)の区制施行時も内坪井と総称し、内部の各街路は江戸時代の俗称であった内坪井本丁・山畔やまくろ・ヲレセンタン・観音かんのん橋・坪井で呼称した。同一三年の郡区改正時に内坪井町となり、そのなかの各街路に流長院前・本丁・内坪井一―三番丁・山畔一―四番丁・天神てんじん丁・新道しんみち・観音橋通・中ノ丁・北ノ丁・折栴檀おれせんだん一―三番丁の丁名が付けられた。しかし今日この各丁がどの街路にあたるか不明のものがある。明治中期以降この地域はすべて内坪井と総称したが、内坪井何番地と地番を使用したことによるのであろう。とくに南半分は明治中期以来の学校・会社などの建設により、旧来の姿を消失していることもあって、旧丁名を復原することが困難となっている。

〔内坪井町の構成〕

内坪井は南半分と北半分で地形を異にする(南と北を分ける東西線は現内坪井町一・二番地と三・四番地の境界道)。北半分(現内坪井町三―一一番地と壺川三・四番地)はほぼ南北に長い矩形状をなし、南半分は西のくびれた新堀の山麓まで坪井川本流が入り込むため、矩形状の西側に半円がのる形をとる。北半分ではほぼ中央を北の坪井川から南は中央部を東西に走る通りまで、南北に縦貫する通りがある。内坪井本丁と称し、北端は内坪井の勢溜に結び付く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報