内ヶ島村(読み)うちがしまむら

日本歴史地名大系 「内ヶ島村」の解説

内ヶ島村
うちがしまむら

[現在地名]太田市内ヶ島

新島にいじま村の東にあり、東は山田郡下小林しもこばやし村・竜舞りゆうまい村、南は邑楽おうら上小泉かみこいずみ(現大泉町)、北は東長岡ひがしながおか村などに接する南北に細長い村で、東境休泊きゆうはく堀が南流する。中世東西両村よりなり、寮米りようまい保に属し、地頭は藤原姓佐貫氏の一流。康永二年(一三四三)八月二〇日の西内島村注文(正木文書)によると、暦応四年(一三四一)二月一〇日に佐貫江口又四郎入道は佐貫内島彦六入道・同孫六入道跡の「寮米保内西内島村」を上杉憲顕から与えられている。同注文および年月日未詳の内島村下地注文(同文書)によると、政所屋敷、堀内、新堀内、別所観音堂六供屋敷や賀茂社・若宮・聖天神などの神田があり、中島・ふるこほり等の小名が確認される。堀内・新堀内は旧主彦六入道・孫六入道の館跡であり、ふるこほり(現大泉町)邑楽郡の郡衙所在地に比定されている。この時の内島村は全体で在家一九宇・田二三町三反半、西内島(在家八宇・田一一町八反)分がおよそ半分になっているところから東西の二つに折半されたものと思われる。この境界の目安は女体山によたいさん古墳南の榎木中道、堰堀、大縄手などである。同地の大槻氏宅が内島新堀内に比定されており、半町四方の土塁をもつ方形館で周囲に観音堂や若宮八幡宮がある。

内ヶ島村
うちがしまむら

[現在地名]深谷市内ヶ島

北縁を東流する小山こやま川右岸の沖積低地にあり、東は高畑たかばたけ村、南は大塚島おおつかじま村など。深谷領に所属(風土記稿)。村の中ほどを備前渠びぜんきよ用水が流れ、矢島やじま堰から取水している。猪俣党内島氏の名字の地とされ、猪俣党系図(諸家系図纂)によれば、岡部国綱の子忠俊(岡部六弥太忠澄の従兄弟)が内島三郎を称し、内島氏の祖となった。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条によると、承久の乱の際に同月一四日の山城宇治合戦で内嶋三郎は勲功を立てたが、同七郎は討死している。同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院内裏造営雑掌分担目録中には内嶋三郎の後継が記されている。地内の小字に西廓にしくるわ・東廓・南廓があり、付近一帯が内島氏館跡に比定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報