内ノ子村(読み)うちのこむら

日本歴史地名大系 「内ノ子村」の解説

内ノ子村
うちのこむら

[現在地名]内子内子うちこ

小田おだ川西岸の河岸段丘上に位置する。江戸期を通じて「うちのこ」とよんだが、明治期以降は「うちこ」と称する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多郡の項に「内ノ子村 日損所、松林山少有、茅山有、川有」と記されている。大洲藩領。

元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によると、内ノ子村は六日市むいかいち七日市なぬかいち(のち八日市と改称)廿日市はつかいちの三つの街村と少々の村分によって構成された村で、各街村には庄屋が置かれていた。特産には米・大豆・紙があった。寛政八年触書(麻生文書)によれば、起源は確かでないが、大洲藩の在町として一般商品の商いが許可されていた。享和元年(一八〇一)の「大洲旧記」と「六日市永久録」とによって各市の状況をみると次のようである。

廿日市願成がんじよう寺の門前町で、天正一五年(一五八七)頃には人口も増加し内ノ子の南の玄関の市場町として繁栄し、延宝四年(一六七六)曾根氏が庄屋になった頃から町並が形成された。文化四年(一八〇七)六日市と合併した。しかし弘化三年(一八四六)の四回にわたる水害後しだいに衰微して、旧松山道が六日市経由に変更されたことなどから、町の繁栄は六日市に移った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報