廿日市(読み)ハツカイチ

デジタル大辞泉 「廿日市」の意味・読み・例文・類語

はつかいち【廿日市】

広島県南西部の市。広島湾に面し、カキの養殖や土木・酒造業が盛ん。もと山陽道宿場町市場町住宅地。平成15年(2003)佐伯町吉和村を、同17年に大野町宮島町を編入。人口11.4万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「廿日市」の意味・読み・例文・類語

はつかいち【廿日市】

広島県西部の地名。東は広島市に隣接し、南は広島湾に面する。厳島神社造営の基地の町、また、山陽道の宿駅・市場町として栄えた。近年は広島市の近郊都市として発展。木工業が盛ん。昭和六三年(一九八八市制

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日本歴史地名大系 「廿日市」の解説

廿日市
はつかいち

[現在地名]廿日市町桜尾本さくらおほん町・桜尾一―三丁目・天神てんじん住吉すみよし一―二丁目・ほん町・廿日市一―二丁目・廿日市・須賀すが可愛かわい大東おおひがし

佐方さがた川と可愛川の間の海岸砂州平野と新開地に開けた町。西は下平良しもへら村に接し、東と南は瀬戸内海に臨む。山陽道が中央を通り、宿場町として栄えた。今川了俊の「道ゆきぶり」応安四年(一三七一)九月一九日の記事にみえる「佐西の浦」は当地に比定される。廿日市の地名は享徳三年(一四五四)二月一九日付の三郎次郎詫状(小田文書)に「廿日市ひかしかり屋三郎次郎」とみえる。地名は毎月二〇日に定期市が開かれたことによる。

天文一四年(一五四五)四月八日付の「閥閲録」所収糸賀勘左衛門家文書に「平良庄内廿日市」とみえ、厳島神社領平良庄に含まれた。当地の桜尾城に居した同社神主藤原家が同一〇年に断絶した後は、大内氏の家臣鷲頭治部少輔が当地を支配し、同二〇年陶晴賢大内義隆弑逆により一時陶氏の重臣江良賢宣・毛利与三らの支配するところとなった。しかし同二三年からは毛利氏の重臣桂元澄の給知となった。元澄宛の同年七月二日付の毛利元就同隆元連署判物(「閥閲録」所収桂能登家文書)に、「神領之内平良宮内郷六百九拾六貫、佐方七拾五貫、当町(廿日市)一円進之候、全可御知行候」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「廿日市」の意味・わかりやすい解説

廿日市[市] (はつかいち)

広島県南西部の市。旧廿日市市が2003年3月佐伯(さいき)町と吉和(よしわ)村を編入,さらに05年11月大野(おおの)町と厳島(いつくしま)の宮島(みやじま)町を編入して成立した。人口11万4038(2010)。

廿日市市南東部の島。広島湾の南西部にあり,1島1町の宮島町(旧町名)があった。長さ10km,幅3.5kmの北東~南西に細長い紡錐形を呈し,幅1km余りの大野瀬戸で本土に対する。面積は30.2km2。広島県佐伯(さえき)郡に属する厳島町であったが,1950年に宮島町に改めた。島の大部分は弥山(みせん)(535m)を主峰とする険しい花コウ岩山地で,海岸には〈安芸の宮島まわれば七里,浦は七浦七恵比寿〉と謡われる小規模な砂浜がある。厳島神社門前町として発達した中心集落は弥山北麓の海岸にある。厳島神社の名が確かな史書にあらわれるのは《日本書紀》811年(弘仁2)の〈伊都岐島(いつきしま)神〉である。宮島の名も古く,《高倉院厳島行幸記》に見える。江戸時代に松島,天橋立とともに〈日本三景〉と呼ばれたのも,自然の秀景だけでなく,平氏滅亡後もつづいていた厳島信仰のためといわれる。神の島であるため,現在でも町民の墓地は島内になく,対岸の旧大野町に埋葬する。

 島内にはミヤジマカエデ,ミヤジマシモツケなど宮島固有の植物が残る瀰山(みせん)原始林(天)があり,それを背景に静かな入り江に鮮やかな朱塗りの建築群の影落とす厳島神社(国宝)と大鳥居(重要文化財),古い町並みとそこに息づく民俗芸能が残っており,全島が特別史跡,特別名勝となっている。この比類なき自然と歴史的建造物の見事な調和が評価されて,1997年に〈厳島神社〉として〈世界文化遺産〉に登録された。年間300万人近くの観光客を国内外から集め,全世帯(人口2193,2000)の3分の1以上が土産物店,旅館などの観光関連に従事する。宮島しゃもじなどの木工,紅葉まんじゅうなどの菓子製造も多い。しかし,土地の狭さや乱開発への規制を嫌って加工場や住居を島外に移す例も多く,人口の年々減少は,歳入の相当部分を依存していた競艇収入配分金の減少とともに町政改革の課題となっている。
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廿日市市南部の旧町。旧佐伯郡所属。人口2万5727(2000)。広島湾岸にあり,大野瀬戸をはさんで厳島(宮島)と対する。北東部の宮島口は厳島への渡船場として古くから発達し,現在もJR山陽本線,広島電鉄宮島線,山陽自動車道が通じる。広島市に近いため工業も盛んで,海岸の埋立地には製缶,殺虫剤,製紙など多くの工場が立地している。大野瀬戸ではカキの養殖が行われ,丸石には南西海区水産研究所(現,独立行政法人の水産総合研究センター瀬戸内海区水産研究所)がある。中世に大内義隆の本拠となった門山城跡などの史跡も多く,経小屋山の四十八坂は1866年(慶応2)の長州征伐で幕府軍が大敗を喫した地である。ほかに妹背(いもせ)の滝,宮浜温泉などがある。

廿日市市中部の旧町。旧佐伯郡所属。人口1万2621(2000)。西は山口県に接し,中国山地脊梁部の鬼ヶ城山,羅漢山大峰山などに囲まれ,瀬戸内海に注ぐ小瀬(おぜ)川の上流域を占める。中心集落の津田は,近世,山陽道の廿日市宿から石見(いわみ)へ向かう石見津和野路の宿駅として栄えた。町域の大部分が山林で,杉,松,ヒノキなどの良材を産し,木工場もある。米作,高冷地野菜や花木の栽培,酪農,養鯉なども盛んである。小瀬川の支流木野(この)川沿いに岩倉温泉(放射能泉,18~25℃),羅漢温泉(放射能泉,31℃),万古渓(ばんこけい)などの観光地がある。町の西部を国道186号線が大竹市に通じる。

廿日市市東部の旧市。1988年市制。人口7万3587(2000)。旧広島市の西にあり,西部は低山地が占める。御手洗(みたらい)川と可愛(えの)川の沖積地にある中心の廿日市は,中世以来山陽道の要衝で,毎月20日に市が開かれ,地名の由来となった。厳島神主藤原氏の桜尾城があり,鋳物師や厳島神社に仕える鍛冶,番匠,檜皮師などが居住し,町屋が形成されていた。近世には広島城下と玖波宿の間に置かれた宿駅として発展し,本陣が設けられていた。奥地から運ばれる林産物の集散地としても栄え,石見路により当地と結ばれる津和野藩は御船屋敷を設けており,多くの材木問屋があった。近年は材木港の築港,木工団地の造成により,木工業が盛んである。また広島市の近郊農業地帯,住宅地としても発展している。海岸沿いにJR山陽本線,広島電鉄宮島線,国道2号線,西広島バイパスが通じ,山陽自動車道の廿日市ジャンクションがある。厳島神社の外宮地御前(じごぜん)神社がある。

廿日市市北部の旧村。旧佐伯郡所属。人口853(2000)。西は島根・山口両県に接し,北に十方山(1328m),西に冠山(1339m)がそびえる中国山地中にあり,積雪寒冷地帯である。太田川の源流域で,川沿いにわずかに沖積低地が形成される。戦国末期,佐伯郡山間部は山里と呼ばれたが,吉和郷もそのうちに含まれた。1554年(天文23)には吉和山里一揆が毛利氏の支配に抗し,陶晴賢に味方して戦っている。江戸時代は広島藩家老上田氏の知行地であった。米作のほかワサビ,シイタケの栽培も行われる。また,杉,ヒノキ,ブナなどの用材を産する。県境は西中国山地国定公園に含まれ,冠山南麓の冠高原にはレンゲツツジの大群落があり,キャンプ場,スキー場としても知られる。冠山の東には潮原(うしおばら)温泉がある。中国自動車道の吉和インターチェンジがあり,国道186号線が通じる。
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