六日町村(読み)むいかまちむら

日本歴史地名大系 「六日町村」の解説

六日町村
むいかまちむら

[現在地名]六日町六日町

魚野うおの川左岸に位置し、北は八幡やわた村、東は魚野川対岸の坂戸さかど村、南は竹俣たけまた(現塩沢町)、西は小栗山こぐりやま村。三国みくに街道宿駅五日町いつかまち村まで二里、塩沢しおざわ(現塩沢町)まで二八町。三国街道から分岐して清水しみず道が通じる。三国街道に沿う民家は幅一尺の溝が家の境となっている。街道西側裏には字白山はくさん町・伊勢いせ町、東側裏にかみ町の集落がある。当地はもと杉之島すぎのしまと称したと伝え(南魚沼郡誌)、現在も字名として残る。永正一一年(一五一四)正月二六日の長尾為景感状(上杉家文書)によると、長尾房長・房景らは上杉定実の将八条左衛門佑らと「上田庄六日市」で戦い、左衛門佑らを破っている。正保国絵図に村名がみえ、高一千五〇〇石余。

六日町村
むいかまちむら

[現在地名]遊佐町遊佐町

十日町とおかまち村の北西にあり、西は尻引しりびき村。六の日に市が開かれたことに由来し、大楯おおだて城下として町場化していたとみられる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一九一石余。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)では高四五二石余、組頭役料二石余。享和三年(一八〇三)には家数三〇・人数一〇三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧によれば免五ツ一分、家数三〇。寛文九年(一六六九)検地帳(旧六日町区有文書)では高四四五石余、反畝合計三六町余。名請人は三一で、修験と思われる来学坊の保有地五畝余。保有地の広いのは三右衛門で五町一反余、九之助二町六反余、吉蔵二町一反余で、以下一町以上二町未満一二、五反以上一町未満五、五反未満一一。

六日町村
むいかまちむら

[現在地名]浦川原村六日町

保倉ほくら川右岸、西は日向ひなた村、東は保倉川支流猿俣さるまた川を挟み横川よこかわ村。はなさき街道と朔日ついたち峠越の通称原之町はらのまち街道との交点にある。中世には市立てがあったと思われる。近隣の顕聖寺けんしようじ村には十日町とおかまち地名がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「宇津江藤右衛門分六日町村 上」とあり、本納一四石七斗六升六合八勺・縄高三一石九斗五升、家五軒・一五人。慶長三年(一五九八)検地(六日町区有文書)に、田畠惣石高三五石四斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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