六万部村(読み)ろくまんぶむら

日本歴史地名大系 「六万部村」の解説

六万部村
ろくまんぶむら

[現在地名]伊根町字六万部

伊室いむろ村の北に位置し、近世初期は伊室村のうちであった。寛文九年(一六六九)に永井尚征が入部して丹後の領内の村の細分化政策を立てた際に、伊室村から分割され高付された。延宝三年郷村帳に「(伊室村)六万部」高五四・七八三石と記される。その後延宝九年(一六八一)の延高によって八四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領として推移したが、延宝八―九年、享保二年―宝暦九年(一七一七―五九)幕府領幕末期の戸口は二一軒、一一三人(与謝郡誌)

「丹哥府志」六万部村の条に次のように記される。

<資料は省略されています>

背後の城山は三富氏の城跡である。とまり村の城は六万部出城で一体のものと考えられる。

六万部村
ろくまんぶむら

[現在地名]吉川町六万部

北は田尻たじり村、西は西野島にしのしま村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外七方分六万部村 下」とみえ、本納四六石一斗三升・縄高七〇石五斗六升七合、家七軒・二二人とある。当時隣接していた岩野入いわのいり村について「河田喜三郎此外四方分岩の入村 下」とみえ、本納二一石三斗六升・縄高三〇石五升、家三軒・一〇人とある。慶長三年(一五九八)の岩入村・六万部村検地帳(石野武教氏蔵)によると、田方八町九反小のうち上田が六町三反大二歩と八割近くを占め、畠方二町三反四六歩のうち上畠が一町四反大三三歩である。

六万部村
ろくまんぶむら

[現在地名]久喜市六万部

所久喜ところぐき村の北にあり、北はつじ(現加須市)新川につかわ用水を境に水深みずふか(現加須市)中妻なかづま(現鷲宮町)。村の北西端の地はせきうえ、南部は仁丁にちよう町とよばれている。仁丁町の西部に上清久かみきよく村の飛地がある。村名は、当所に法華塚があり六万部の供養塔があったことによると伝える(風土記稿)騎西きさい領に所属。慶安四年(一六五一)上清久村から三〇余軒の民家が移り一村をなしたといい(同書)、元禄郷帳に上清久村枝郷と注記がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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