八崎村(読み)はつさきむら

日本歴史地名大系 「八崎村」の解説

八崎村
はつさきむら

[現在地名]北橘村八崎

赤城山の南西麓に位置し、山麓原および利根川河岸段丘上に広がる。東は小室こむろ村、南は分郷八崎ぶんごうはつさき村、北は天竜てんりゆう川を挟んで三原田みはらだ村・たる(現赤城村)、西は利根川を隔てて渋川村(現渋川市)。発崎とも記す。村名は双玄そうげん寺境内墓地の天文一三年(一五四四)の六地蔵供養塔に「勢多郡拝志庄八崎村」とみえる。

寛文郷帳によると田方六九四石余・畑方五三四石余、前橋藩(幕末に至る)。貞享二年(一六八五)小室村を分村(小室村の記録では同元年)元禄郷帳では八九二石余。明和五年(一七六八)元八崎もとはつさき村を分けた(ただし郷帳類では一村)。この時から文政(一八一八―三〇)頃まで上八崎村と称した(文政一二年「前橋藩諸職人元帳」星野文書ほか)。天保五年(一八三四)の五人組并寺社人別改帳(八崎区有文書)によると家数二〇五・人数七三六、馬数八一。前橋藩の行政区分では川通に属した。川通は街道(清水峠越往還)でもあり、宿場(立場)が置かれ、安政六年(一八五九)問屋交替願書(同文書)に「当村問屋 佐五右衛門」とあって問屋が設けられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報