入江保(読み)いりえほ

日本歴史地名大系 「入江保」の解説

入江保
いりえほ

可愛えの川南側の上入江かみいりえ・下入江付近の地で、文治六年(一一九〇)四月日付の主殿寮年預伴守方解(壬生家文書)の「立保五箇国」のうちに「安芸 年別油三石□斗四升四合 大粮米七十六石四升四合 初任以後已未済、然間及去年月迫、以字入江郷立保之間、去年作田六反余云々、雖為不足言請取之」とみえる。元久元年(一二〇四)一二月日付の安芸国入江保司等解案(同文書)は「当保者備進厳重用途之地也、而有余剰之由、在广訴申、可被切充済物之旨、雖有其聞、田畠(狭)少、年貢勤及不足之間、為定数被停止件事了、而可検注之由、自国衙令相触、於入勘者、為国衙無益、為寮家大損也、只保民成悦許也、早被言上国前、欲被停止入勘者、可為公平其一歟」という保司の申文である。その後も壬生家文書には文永二年(一二六五)の入江保雑物注進状、同一一年二月一七日付の詳細に書上げられた入江保田畠年貢散用状、同年四月の未進注進状をはじめ、多くの記録が残る。

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改訂新版 世界大百科事典 「入江保」の意味・わかりやすい解説

入江保 (いりえのほ)

安芸国高宮郡(現,広島県安芸高田市吉田町上入江・下入江)の主殿寮便補保(びんぽのほ)。1189年(文治5)安芸国司により年別油3石3斗4升4合,大粮米76石4升4合の負担地として便補指定をうけ成立。成立当時の作田数は6反余という狭小なもので国衙在庁の妨げもみられたが,やがて領有が安定し1274年(文永11)の年貢散用状(計算書)によれば,田31町310歩,畠22町7反大40歩,栗林7町3反大,京進にあてられる所出物は米,大豆,搗栗(かちぐり)のほか桑代布,花紙,在家苧,宿直銭,御覧箱,雑皮,串柿炭薪,漆などの多岐にわたっていた。主殿寮による入江保支配は国衙領当時のあり方を踏襲する形で行われていたが,鎌倉末期以降になると代官請が通例化してくる。代官請は当初預所の系譜をひく馬越氏によって果たされていたが,南北朝後期ごろから毛利氏の介入をまねき,馬越氏を被官に組み込んだ武田氏との間で代官職をめぐる抗争が激化した。嘉吉年間(1441-44)に至ってようやく毛利氏の代官請が定着をみ,15世紀末ごろまで年貢上進が続けられた。
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