伊藤宗看(読み)イトウソウカン

デジタル大辞泉 「伊藤宗看」の意味・読み・例文・類語

いとう‐そうかん【伊藤宗看】

[1618~1694]江戸前期の将棋棋士。家元伊藤家の祖。幼少のとき大橋宗桂師事、のち3世名人になった。

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精選版 日本国語大辞典 「伊藤宗看」の意味・読み・例文・類語

いとう‐そうかん【伊藤宗看】

江戸前期の棋士。出雲の人。幼少のとき大橋宗桂に師事、のち三世名人となる。家元伊藤家の祖。元和四~元祿七年(一六一八‐九四

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改訂新版 世界大百科事典 「伊藤宗看」の意味・わかりやすい解説

伊藤宗看 (いとうそうかん)
生没年:1618-94(元和4-元禄7)

3世将棋名人。出雲国に生まれる。2世名人大橋宗古の門人になり,棋力に秀でていたために宗古の娘をめとって伊藤家を興した。幕府より家禄として代々20石五人扶持を支給され,1654年(承応3)宗古が没すると名人に就任。以後将棋所の司である名人位は大橋本家,分家および伊藤家のいずれかにより世襲することになり,将棋の家元制度が確立した。宗看のときに将棋三家は京都から江戸に移住,名実ともに将棋役として幕府に奉公するようになった。江戸城での御前将棋が定式化されたのもこのころである。宗看は大橋家の出身でないゆえか民間の将棋指との対局も多く,実力のうえからも名人として将棋家の権威を高めた。なお,《将棋無双》,または《詰むや詰まざるや百番》と称される難解な詰将棋作品集を作ったのは7世名人の3代目伊藤宗看(1706-61・宝永3-宝暦11)で,6代目伊藤宗看(1768-1843・明和5-天保14)も10世名人になっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤宗看」の意味・わかりやすい解説

伊藤宗看
いとうそうかん
(1706―1761)

江戸時代の将棋棋士。2代伊藤宗印の二男。幼名は印寿。1724年(享保9)3代宗看の名で「御城(おしろ)将棋」を務める。27年八段に昇り、翌28年、23歳という史上最年少で7世名人を襲位。名人襲位6年目に献上した図式(詰め将棋)の「象戯(しょうぎ)図式」は名作で難解。後代の人は「詰むや詰まざるや百番」と称して有名である。弟看寿は享保(きょうほう)時代(1716~36)を代表する傑作「象棋百番奇巧図式」(通称「将棋図巧」)を遺(のこ)し、42歳で没後名人を贈られた。「鬼宗看」といわれるその棋風の、正しい大局観、中盤は軽快かつ豪快、応変の力強さ、寄せの鮮やかさが御城将棋の実戦譜に示されている。歴代名人中、最強とみるファンが多い。

原田泰夫

『伊藤宗看・看寿著『詰むや詰まざるや』(平凡社・東洋文庫)』

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世界大百科事典(旧版)内の伊藤宗看の言及

【将棋】より

…算砂がその司に任ぜられたが,1612年(慶長17)に算砂,宗桂に家禄50石が支給された。34年(寛永11)に大橋家は宗桂の長子・宗古が継いだが,宗古の弟宗与は分家し,宗桂の門人伊藤宗看(そうかん)(後の3世名人)が宗古の娘婿となって新たに伊藤家を興した。35年大橋両家と伊藤家に家禄20石が支給されるようになり,この世襲3家によって家元制度が確立した。…

※「伊藤宗看」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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