伊興村(読み)いこうむら

日本歴史地名大系 「伊興村」の解説

伊興村
いこうむら

[現在地名]足立区伊興一―五丁目・西伊興にしいこう一―四丁目・伊興本町いこうほんちよう一―二丁目・東伊興ひがしいこう一―四丁目・西伊興町・竹の塚たけのつか一丁目・同六―七丁目・西竹の塚にしたけのつか一―二丁目・西新井にしあらい四丁目

東流する毛長けなが(現毛長川)右岸に位置し、東は竹之塚たけのつか村、南は栗原くりはら村・西新井村、南東は谷在家やざいけ村、西は古千谷こぢや村。中央を南東から北西へ赤山あかやま(現埼玉県川口市)に至る道(岩槻道あるいは赤山道ともいう)が通る。屋敷や寺社はおおむね字村廻むらまわりに集中する。ほかは耕地が主で毛長堀に接する低地部分に字谷下やじつたがあり、以下南にかけて白幡しらはた狭間はざま聖堂せいどう前沼まえぬま番田ばんだ五反田ごたんだ見廻みまわり大境おおざかい一丁目いつちようめ諏訪木すわぎ京伝きようでん槐戸さいかちどの各字に耕地が広がる(常田家文書)

〔中世〕

文永五年(一二六八)一二月二日の右衛門尉某安堵状写(古文書集)に武蔵国「伊古郷」がみえ、同郷内の新藤三跡の「さかやかき(う)ちの在家・同田」を左衛門四郎に安堵している。伊古郷は当地のほか、現埼玉県滑川なめがわ町伊子に比定する説もある。なお建長八年(一二五六)六月二日、奥大道(鎌倉街道)に出没した夜討・強盗に対する警備を幕府から命じられた沿道地頭二四名のなかに伊古宇又二郎がいる(吾妻鏡)。他の地頭が本貫地名を名字とする武士であることから、伊古宇又二郎も当地を本貫としていたと推定される。北条氏所領役帳には千葉殿(武蔵千葉氏)の所領として下足立「伊興村」三〇貫文がみえる。ちなみに現伊興三丁目には千葉勝胤墓と称する石塔がある。造立年代および勝胤の系譜は不明であるが、下総千葉勝胤とは同名異人で、武蔵千葉氏一族であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報