伊佐(市)(読み)いさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊佐(市)」の意味・わかりやすい解説

伊佐(市)
いさ

鹿児島県の最北部に位置し、北は熊本県、東は宮崎県に接する。2008年(平成20)大口市(おおくちし)と伊佐郡菱刈町(ひしかりちょう)が合併して成立。東シナ海に注ぐ川内川(せんだいがわ)の上・中流域に開けた大口盆地を中心に、これを取り巻く山地からなる。北部の国見(くにみ)山地を水源として南に下る羽月(はつき)川は、鹿児島・熊本・宮崎3県境に発した市山(いちやま)川を合わせ、市内を西流する川内川に注ぐ。川内川流域県立自然公園の指定域。北東―南西方向に国道267号が、北西―南東方向に国道268号が走り、両国道と重複して国道447号が東西に横断、これら3国道は中心市街で交差。かつては国鉄宮之城線(みやのじょうせん)、JR山野線(やまのせん)が通じていたが、1987年(昭和62)、1988年に相次いで廃止。内陸性の気候で、県内では最も寒冷な地域である。

 旧石器時代の日東遺跡(にっとういせき)、縄文時代では標式遺跡の手向山遺跡(たむけやまいせき)、日勝山遺跡(ひかちやまいせき)などが知られる。九州における縄文研究の先駆的な役割を果たし、「伊佐縄文」の代名詞もある。古墳時代には地下式板石積石室墓、地下式横穴墓という南九州にみられる2つの墓制が混在。平安末期以降は川内川―市山川を境として、北半は薩摩国牛屎(うしくそ)郡(のち牛屎院)に、南半は大隅国菱刈郡(のち菱刈院)に所属したとみられる。戦国時代には肥後の相良氏などと結んだ菱刈氏が、当地の領有をめぐって島津氏と争った。江戸時代には薩摩藩領で、牛屎院は祁答(けどう)院(現在のさつま町から薩摩川内市)と合わせて薩摩国伊佐郡となり、菱刈院は大隈国菱刈郡となった。1887年(明治20年)伊佐郡は旧牛屎院域の北伊佐郡と旧祁答院域の南伊佐郡に分立、1896年に北伊佐郡と菱刈郡が合併して、新たに伊佐郡となった(南伊佐郡は薩摩郡に編入)。この明治の伊佐郡の郡域が現在の伊佐市域に相当し、市名はこれに由来。江戸時代、川内川の右岸に現在の菱刈用水、左岸に太良用水(たらようすい)が開削され、開田が進んだ。現在、耕地の7割以上が水田で、水田化率は県平均(3割強)の2倍以上で、優良米、伊佐米の産地として知られる。近年は水稲畜産を組み合わせた複合経営が行われ、1970年に宮人(みやひと)地区に設けられたジャパンファームの養豚施設は、日本最大規模を誇る。伊佐焼酎とよばれる焼酎醸造も盛ん。明治中期には牛尾(うしお)、昭和初期には布計(ふけ)の各金山が稼動していた。現在、住友金属鉱山が経営する菱刈鉱山は、1981年に鉱脈が発見された。日本最大の金鉱山で、高品位、豊富な埋蔵量で著名。川内川にかかる曽木の滝(そぎのたき)は幅210メートル、「東洋のナイアガラ」ともよばれる。曽木の滝の下流1.5キロメートルにあった曽木発電所は1909年(明治42)に竣工、当時は国内最大級の水力発電所だった。1965年(昭和40)に鶴田ダム(つるだだむ)の完成により水没、現在は渇水期にレンガ造りの建物が現れる。川内川の河床から引湯する湯之尾温泉(ゆのおおんせん)は、江戸時代からの由緒ある温泉。付近は川内川のチスジノリ発生地として国指定天然記念物。羽月川支流の十曽(じっそ)川上流域にあたる奥十曽渓谷は「森林浴の森日本百選」や「水源の森百選」に選定される景勝地。祁答院家住宅は郷士住宅の構えをよく残し、国指定重要文化財。面積392.56平方キロメートル、人口2万4453(2020)。

[編集部]


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