仲村庄(読み)なかむらのしよう

日本歴史地名大系 「仲村庄」の解説

仲村庄
なかむらのしよう

現本巣町文殊もんじゆ近辺にあった近衛家領庄園。長寛元年(一一六三)頃と推定される美濃国諸庄未進注文(兵範記裏文書)に「仲村」とみえ、年貢五〇疋が未進であった。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に庄名がみえ、もと高陽院(藤原忠実の娘)領で、近衛家が庄務権(領家職)を掌握していた家領で、預所は盛長法印であった。正応三年(一二九〇)に当庄から三反の宝帳布が進上されている(「宝帳布所進諸庄目録」同文書)地頭職は宝治二年(一二四八)に本司跡として大友氏が補任されており、宝治合戦による没収地であったと思われる。また永仁五年(一二九七)までに上下に分割され、文保二年(一三一八)には下方地頭大友貞宗と領家方雑掌との間で、公文職名田畠・庄官給田・岩丸名・検断権などをめぐって相論が行われている(一二月一二日「関東下知状」大友文書)。建武政権に反旗を翻した足利尊氏側に付いた大友亀松丸(氏宗)は、建武四年(一三三七)六月一九日仲村庄上方地頭職を勲功の賞として与えられた(「足利尊氏袖判下文」同文書)

仲村庄
なかむらのしよう

古代の多度たど仲村郷(和名抄)の郷名を継ぐ。中村なかむら町を遺称地とし、一帯に比定される。善通寺領一円いちえん保に属さなかった中村郷内国衙領は、鎌倉時代に行勝が創設した高野山一心いつしん院領仲村庄となる。延応元年(一二三九)二月八日の太政官牒および同日付の官宣旨(高野山文書)に載る嘉禎四年(一二三八)五月二〇日の一心院院主道勝の奏状によれば、仲村郷は建永年間(一二〇六―〇七)国司によって同院に寄進され、以後代々の国司の安堵を受けているという。

仲村庄
なかむらのしよう

平安時代の庄園。庄域はなか一帯と思われる。元慶七年(八八三)九月一五日付観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)観心かんしん(現河内長野市)領河内国石川郡内八所の一として仲村庄がみえる。三間四面の萱葺屋根の庄屋一棟と敷地一反、鏡田里・大野里・石曳里の三里に散在する二町一反一〇〇歩から成り、この庄田は貞観一一年(八六九)六月九日に民部省符によって施入されたもので、官省符庄として成立したことがわかる。下って保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)にみえる山城石清水いわしみず八幡宮領河内国中村なかむら庄も、当地一帯にあったと考えられる。観心寺領仲村庄二町歩余の領有が平安時代後期以後どう伝領されたのか、観心寺文書には関係文書がなく明らかではない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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