井崎村(読み)いざきむら

日本歴史地名大系 「井崎村」の解説

井崎村
いざきむら

[現在地名]小長井町 井崎名いざきみよう

小川原浦おがわはるうら村の北に位置し、南東部で船津ふなつ川が有明海に注ぐ。中世は伊佐早いさはや庄のうちで、宝治元年(一二四七)一〇月六日の六波羅施行状案(高城寺文書)に「伊左早庄内遠竹村、本名伊崎内」とみえる。同年九月一五日、肥前国在庁官人である高木(藤原)勝丸が父高木家明および祖父家朝(法名迎西)の譲状にしたがって当地などの地頭職を安堵されているが、当地のみは勝丸の祖母一期ののち知行すべきこととされている(同年一一月五日「大宰府守護所下文案」同文書)。天正一二年(一五八四)伊佐早西郷氏一門が鍋島直茂に提出した一〇月一六日の原左京亮純英等連署起請文(佐賀県立図書館蔵)に遠岳尭運とともに井崎左衛門佐綱道の名がみえており、当地を拠点とする者であろう。

井崎村
いさきむら

[現在地名]十和村井崎

小野おの村の南方に位置する上山かみやま下分しもぶん一村四万十しまんと川に西北から流入する長沢ながさわ川との合流地点の下流、四万十川が撥形に大きく蛇行するところ、北はこの四万十川に接し、村の東南には堂が森どうがもり(八五六・九メートル)、西南に鷹の巣たかのす(六五四・一メートル)がそびえる。通称地名に保木ほき実弘さねひろ相後あいご柳瀬やなぎせ・井崎谷があり、「土佐州郡志」は「東限阿伊子(相後)、西限柳瀬、南限下川、北限甫喜(保木)、東西七十町南北三十町、戸凡四十六、其土赤」と記す。

井崎村
いさきむら

[現在地名]弥生町井崎

上野かみの村域の東部、井崎川と番匠ばんじよう川の合流点付近、東境栂牟礼とがむれ(二二三・七メートル)西麓の山間村。慶長一六年(一六一一)の上ノ村検地目録(佐伯藩政史料)に上ノ村の内として村名がみえる。正保郷帳では田高二四〇石余・畑高六七九石余、上村かみのむら郷に属した。ただしこれは上野村の村高を当村で代表したものと考えられる。以降郷帳類では上野村高に含まれたと思われる。元禄見稲簿では上野村の内に村名がみえ、無高。

井崎村
いざきむら

[現在地名]京北町大字井崎

弓削ゆげ一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川左岸、現周山街道に沿って開けた山間集落。街道沿いの北は清田せいだ村、南は周山しゆうざん五本松ごほんまつ村、西は川を挟んで塩田しおた村に対し、東は山を越えると山国やまぐに鳥居とりい村・とう村。集落の北にしが古墳群がある。

慶長七年(一六〇二)幕府領寛文四年(一六六四)以降丹波篠山藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高一六七石余。

井崎村
いさきむら

[現在地名]清川村宇田枝うたえだ 井崎

宇田うた村の北東にあり、同村との間を北流してきた奥岳おくだけ川が北で曲流して東へ向きを変え、東部で中津無礼なかつむれ川と合流する。康正三年(一四五七)二月二五日の志賀親明置文(志賀文書)に「緒方庄宇多枝名内井崎、其外散在地白谷云」とあり、大友氏庶流志賀氏の知行地の一所としてあげられている。正保郷帳に村名がみえ、田高九石余・畑高一四石余、宇田枝郷に属した。安永七年(一七七八)には宇田枝組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

井崎村
いざきむら

[現在地名]三方町井崎

能登野のとの村の西に位置し、はす川が流れる。中世は倉見くらみ庄に属し、永仁三年(一二九五)一二月二日付の倉見庄実検田目録案(大音家文書)に「真弘井崎一丁七反四十四歩」とみえ、所当米は四石余であった。正保郷帳によれば田方五一二石余・畠方一二三石余。文化四年(一八〇七)の戸口は五六軒・二三二人(雲浜鑑)

集落の北西、佐古さこ黒田くろたの中間東側に張出した標高二七〇メートルの山頂にある井崎城(大倉見城とも)は、さほど大きくはないが峻険な要害の地で、三方郡西部を一望できる位置にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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