五十辺村(読み)いがらべむら

日本歴史地名大系 「五十辺村」の解説

五十辺村
いがらべむら

[現在地名]福島市八島町やしまちよう堀河町ほりかわちよう入江町いりえちよう岩谷いわや山神さんじん大森おおもり立石たていし北原きたはら猫渕ねこぶち滝元たきもと坂登さかのぼり石田いしだいわまえ山際やまぎわ山居さんきよ茶屋下ちややした道前みちまえきたまえ田中島たなかじまたてまえたてうち蝦貫えぞぬき矢倉下やぐらした遠瀬戸とおせど古川ふるかわ中荒子なかあらこ北中川原きたなかかわら高野河原下こうやかわはらした上荒子かみあらこ下荒子しもあらこ本新畑もとしんはた松山町まつやまちよう

腰浜こしのはま村・小山荒井おやまあらい村の北、はらい(旧松川)まつ川の間に位置し、阿武隈川左岸の平地信夫しのぶ山東麓を占める。北境の松川は流路を変えており、字古川が旧流路の名残で現在の信夫丘しのぶがおかや松川緑地公園は北隣の本内もとうち村地内であった。信夫山東麓寄りを奥州道中が通り松川を越したが、阿武隈川右岸へはその手前の小道(文知摺道)を東に進み舟で渡った。館ノ内には、古代末期大鳥おおとり城主佐藤基治の一族伊賀良目七郎高重の居館とされる五十辺館跡があり、村名も伊賀良目氏に由来するという。高重は文治五年(一一八九)の奥州合戦で基治に従い、石那坂の合戦で討死し、館は攻略されたといわれる。その後地元の伝えでは高重の子孫尾形を称し、五十辺館に住したともいう。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」のうちとして「いからへ」とみえ、段銭は四貫五五〇文。

五十辺村
いからべむら

[現在地名]高岡市五十辺

笹八口ささやつくち村の西に位置し、西は江道えんどう村。元和五年(一六一九)の家高新帳では国吉才二郎組に属して「いからひ」とみえ、役家数八。正保郷帳では篠八口村と併記して高付され、高二一三石余、田方一一町余・畑方三町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高一二一石・免六ツ八歩、小物成は山役四二匁(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数七、肝煎左平次(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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