五位庄(読み)ごいのしよう

日本歴史地名大系 「五位庄」の解説

五位庄
ごいのしよう

小矢部おやべ川中流域の現福岡ふくおか赤丸あかまる・高岡市石堤いしづつみを含む一帯に比定される庄園。「御い」「後位」とも記す。「義経記」巻七に「くりから山をへて、くろさかくちのふもとをごいしやうにかゝりて」とみえる。文永八年(一二七一)一二月二五日の秦守高注進状(秦文書)に「御いの庄」とみえ、同庄の年貢米般若野はんにやの(現砺波市)弘上ひろかみ浅井あさい(現大門町)年貢米とともに安賀大上座御房によって田烏たがらす(現福井県小浜市)へ運ばれている。これらの年貢米は小矢部川舟運で放生津ほうじようづ潟に運ばれ、そこから海路田烏浦へ、次いで京都へ運送されていたと推定される。応安四年(一三七一)七月二八日、桃井直常勢が後位庄において幕府方の能登勢と戦っている(花営三代記)。応永一二年(一四〇五)七月足利義満室日野業子(定心院)が没し、当庄はその追善料所として京都相国しようこく寺に寄進された(「万山編年精要」同月一一日条)

五位庄
ごいのしよう

興福寺大乗院領荘園。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)

<資料は省略されています>

とあり、所在は現五井町と考えられる。面積二町の小荘園であり、大乗院からの賦課のほかに、興福寺寺門への段米、大乗院後見への雑紙なども課せられていた。

五位庄
ごいのしよう

建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の「庄務本所進退所々」のうちに摂津国五位庄がみえる。同目録によると、もと関白藤原師実の所領で、当時は本所が近衛家、庄務は菅原在匡らが行っていた。「後法興院雑事要録」の文明一〇年(一四七八)条には「五位庄卅石」とみえる。「後法興院記」の同一二年七月二七日条によると、当庄代官に西面三郎が補任されているが、雑事要録同一三年条では当庄に「改代官、香西惣右衛門也」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報