[現在地名]宇治市五ヶ庄〈尼ヶ塚・池ノ浦・一番割・一里塚・居場道・上村・梅林・大林・大八木島・岡本・折坂・柏田・瓦塚・北ノ庄・葛森・五雲峰・九ッ池・三番割・芝ノ東・新開・千入寺・高車・高峰山・谷前・檀ノ東・辻本・寺界道・轟キ・戸ノ内・西浦・西川原・西田・二番割・野添・針木原・日皆田・雲雀島・平野・広岡谷・福角・古川〉
北は弥陀次郎川を境として木幡村に、東と南は五雲峰(三四七・五メートル)を主峰とする黄檗丘陵および宇治川東部平野をもって大鳳寺村に続き、西は宇治川右岸に至る地を占める。
中央部を南北に縦貫する奈良街道を中心として、その東西に散在する八つの集落を総称して五ヶ庄とよぶが、それぞれの集落もまた広芝村・大和田村・岡屋村・谷村・新田村・畑寺村・岡本村・上村とよばれ、近世ではそれぞれ領主を異にした。
村域は冨家殿・岡屋庄の地にあたる所で、永く摂関家領とされたが近衛家に伝領され、やがて五ヶ庄と称される。五ヶ庄の地名が史料に現れるのは中世後半以後で、長享元年(一四八七)の後法興院雑事要録(陽明文庫蔵)に「冨家殿号五ケ庄」とみえ、近世においても寛文一〇年(一六七〇)正月九日付の近衛家願状(陽明文庫蔵)に、古くは冨家殿と称したが後法興院政家の時から五ヶ庄とよぶようになったとの記述があり、一五世紀後半以降の呼称と考えられる。
南北に長く帯状を呈する宇治川東部平野のうち、最も東西幅の広い所に位置し、北部の字大林にある二子塚が全長一〇五メートルの宇治川東部最大の前方後円墳であることや、五―六世紀の群集墳が南部丘陵端にあること、さらに「百済国比流王之後」という「岡屋公」(新撰姓氏録)が居住した所とされることなどから、古墳時代の繁栄が推察される。