二本木村(読み)にほんぎむら

日本歴史地名大系 「二本木村」の解説

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]入間市二本木・狭山台さやまだい宮寺みやでら狭山さやまはら、東京都瑞穂みずほ町二本木

中野なかの村の西にあり、西は栗原くりばら新田(現瑞穂町)、南はぼう駒形こまがた高根たかねの各村(現同上)、北は寺竹てらだけ村など。南方を不老としとらず川が北東流し、南東の飛地内を御祓みそぎ川・みや川が流れる。旧地は高根村地内の字榎台えのきだい(現瑞穂第三小学校)付近とされる。天正一八年(一五九〇)と推定される六月二四日の木村一・前田利長連署証状(栗原文書)の宛先に「二本木百姓中」とみえ、豊臣秀吉八王子城攻撃中、両人の判形がない伝馬・夫役は一切出してはならないと厳命されている。これ以前の天正九年四月二三日、近藤綱秀から当地の土豪栗原右馬助に対し一五貫文の地が宛行われ(「近藤綱秀証状」同文書)、同一八年六月二七日には木村一から栗原右馬助に対し八王子城の落人還住について指示が与えられている(「木村一証状」同文書)。栗原氏は甲斐武田氏旧臣で、武田氏滅亡後当地に来住したと伝える(風土記稿)

近世には入間郡山口やまぐち領に属した(風土記稿)。村内は西から通称地蔵宿じぞうじゆく横宿よこじゆく上宿かみじゆく・中宿・下宿に分れ、南方長田領の内村うちむら、狭山丘陵北西麓に坂部領の山際やまぎわ西久保にしくぼなどの飛地がある。中央部を東西に日光脇往還と青梅村(現東京都青梅市)新町しんまちから川越へ向かう新河岸道が重複して通り、道沿いに民家が集中する。両道は下宿の東境付近で分岐し、新河岸道は東方藤沢ふじさわ村方面へ、日光脇往還は北上して扇町屋おうぎまちや村に向かう。両道の南寄りを通る青梅道、近隣のぬき・坊・小谷田こやたへ向かう道、西境地蔵宿から南西に向かう羽村はむら(現東京都羽村町)への道などが集中分散する。慶長九年(一六〇四)旗本坂部五右衛門(正重)が九七石、同一二年同長田理兵衛(吉広)が九五石、寛永六年(一六二九)二月同山田甚五郎(正高)が三五石、同年同伊達庄兵衛(房勝)が一〇〇石を宮寺郷のうちで宛行われたという(「諸家系譜」内閣文庫蔵など)。田園簿では宮寺町のうちで、旗本長田領九五石余、同伊達領二〇〇石の一部、同坂部領九七石、同山田領三四石に相当する。以後旗本四氏領は変わらず幕末に至る。元禄郷帳には宮寺を冠して村名がみえ高四八五石余。万治二年(一六五九)の検地で八〇町七反余が打出され(元禄七年「水帳写」友野家文書)新田検地は寛文九年(一六六九)・享保一二年(一七二七)・同一四年に実施された(明治一七年頃「二本木地誌」大野家文書)。化政期の家数一七〇余、内村は三軒、山際は一〇軒、西久保は五軒(風土記稿)

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]中郷村二本木

北国街道に沿い、南の松崎まつざき村とは町続きで、共同で宿駅を構成していた。片貝かたかい川に沿い、北は坂本さかもと新田。慶長一五年(一六一〇)以来北国街道の宿場とされ、月の前半一五日の宿役を勤めた。天正一〇年(一五八二)織田信長の将森勝蔵長可は、上杉景勝の越中出兵の隙をつき、信州より越後に侵入、関山せきやま三社権現(現妙高村)を焼払い、二本木まで攻め入ったと伝える(「北越軍記」など)正保国絵図に村名があり、高二〇〇石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二五〇石六斗余、「此所駅馬、但、松崎村ト十五日替リ」とある。天和三年郷帳では高二二二石五斗余、うち山高一二石五斗二升五合・漆高八斗四升。旧高旧領取調帳では高二五八石五斗余。

松崎村と共同の宿は人足二五人・伝馬二五匹の定めで、万治三年(一六六〇)の馬宿作法定書(畑山正隆氏蔵)によれば、当村は「地高多ク有之候間」、庄屋給は「高百石ニ付壱年ニ米五斗」で「役屋壱軒ヨリ人足四人ツヽ」出すよう決められている。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]瑞穂町二本木、埼玉県入間市二本木・狭山台さやまだい宮寺みやでら狭山ヶ原さやまがはら

富士山ふじやま村・高根たかね村などの北にあり、東は荻原おぎわら村・中野なかの(現入間市)、西は富士山栗原ふじやまくりはら新田、北は寺竹てらたけ(現入間市)など。村の中央を日光脇往還が縦断する。なお昭和三三年(一九五八)元狭山もとさやま村が瑞穂町に分離編入された際、村域の過半(おおよそ現都道所沢―青梅線より北)は現在の入間市域となった。中世には高根村と同様に宮寺郷のうちであったと考えられる。天正一八年(一五九〇)と推定される六月二四日の木村一・前田利長連署証状(栗原文書)は、「二本木百姓中」に宛てて、木村・前田両人の判形のない夫役・伝馬はいっさい出してはならないとの規定を伝えている。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]米子市二本木

美濃みの村の北にあり、南は今在家いまざいけ村。地内の観音堂境内にある二本の大松が霊木とされていたことから、村名を二本木としたといわれる。貞享四年(一六八七)の相見八幡社社帳(八幡神社文書)に「二本木庄屋平右衛門」の名がみえ、宝永六年(一七〇九)付の現日吉津ひえづ蚊屋島かやしま神社の棟札銘にも「二本木庄屋伊右衛門」とある。拝領高は八八三石余、本免は五ツ一分。箕浦・高浜・青木・山田各氏と米子組士金万氏の給地があった(給人所付帳)

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]気高町二本木

下坂本しもさかもと村の南、坂本谷中央部の山麓に位置する。南は重高しげたか村。「因幡志」では中沖なかおきを枝郷にあげる。拝領高は四〇八石余、本免は四ツ六分。藪役銀九分が課せられ(藩史)、岩越(二家)・大橋・岡村・香河・南条・城戸の各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一九。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高四七五石余、竈数一六。当村は田地の肥やしにする野山の草刈場がなく、海辺の母木ははき村・新町しんまち村や酒津さけのつ村から下肥を運んできていた。しかしこれらの村までは遠方で道路が悪く、とくに川越えに難渋しているとの理由で天明元年(一七八一)川舟一艘を造ることを願出て認められている。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]岩木町一町田いつちようだ 沢田さわだ浅井あさい石田いしだ

東は真土まつち村、北東は一町田村、西は兼平かねひら村、南は竜ノ口たつのくち村・鳥井野とりいの村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に鼻和はなわ庄の寛文四年(一六六四)以降の新田として村名がみえ、村高は一〇六一・八石と非常に高いが、委細不明。貞享四年の検地帳によれば村高三六二・二九六石、うち田方三二五・五〇五石、畑方三六・七九一石で、上田と中田が田方の六七・三パーセントを占める。ほかに漆木三六本とある。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]横越村二本木

小阿賀野こあがの川の右岸に沿って立地、集落は下木津しもきつ村の西に連なり、割野わりの(現新潟市)の東に接する。天正年間(一五七三―九二)上杉氏の臣千阪(坂)対馬守家人青木大膳・植木十郎右衛門の開発、村名は両者にちなむという。青木氏はその後、割野村に移り、跡は蒲原郡草水くそうず(現北蒲原郡安田町)から来住の白倉氏が継いだが、旧記類は元文二年(一七三七)の小阿賀野川破堤の際ことごとく失われたという(中蒲原郡誌)。慶長五年(一六〇〇)新発田藩の御知行方田畑帳(新発田市史資料)に「二本木村 一、拾壱町壱反大拾六歩 田方高 一、拾町九反廿六歩 畠方高」とあり、同一七年の御蔵納同払方帳(同書)に「七拾弐石六斗弐升 二本木村」とある。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]豊田市穂積ほづみ町 二本木

ともえ川とその支流矢並やなみ川に挟まれた村。平古ひらこ―二本木―酒呑しやちのみから足助あすけ(現東加茂郡足助町)へ向かう足助街道が通る。アンガイトというカイト地名が残る。近世初めは幕府領、寛永二年(一六二五)九久平くぎゆうだいらの鈴木市兵衛家領となり明治に至る。寛永郷帳には当村の名はみえず、林山勝市家蔵過去帳に「天和三年卯月廿八日、鈴木二郎作十人合同而二本木村建立有之」とあり、天和期(一六八一―八四)西野にしの村から分村したと考えられる。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]安塚町二本木

北流する小黒おぐろ川沿いの緩傾斜面にある。北は高沢たかさわ村、南は信濃坂しなんざか村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「大乗寺分直嶺分吉田与橘郎分二本木村 下」とあり、本納一一石六斗・縄高一九石一斗六升六合、家四軒・一七人。正保国絵図では高三七石余。天和三年郷帳では高三二石七斗余、うち山高一石六斗三升七合・漆高三石一斗四升・青苧高三斗二升一合、反別田二町九反余・畑屋敷四反余・山林一六町余・青苧畑三畝余で漆木一一四本。

二本木村
にほんぎむら

[現在地名]清見村二本木

夏厩なつまい村の北、北流する小鳥おどり川の下流側にある。元禄飛騨国検地反歩帳の小鳥郷に村名がみえ、高五一石余、田八町七反余・畑六町余。「飛騨国中案内」によれば免は四割五分九厘、家数三一、うち百姓二四・門屋六・寺一。寛政一二年(一八〇〇)の田四八石余・畑二六石余、うち新田高一八石余、反別田一〇町三反余・畑一四町四反余、家数三〇・人数一八五、牛馬三二、猟師鉄砲一・威鉄砲一(村明細帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android