高根村(読み)たかねむら

日本歴史地名大系 「高根村」の解説

高根村
たかねむら

[現在地名]船橋市高根町・新高根しんたかね一―六丁目・高根台たかねだい一―七丁目・緑台みどりだい一―二丁目・芝山しばやま二―三丁目・金杉かなすぎ一丁目・同七―八丁目・南三咲みなみみさき四丁目

こめさき村の北に位置し、東は下総台地が広がり、近世は下野しもの牧であった。村を通る道は高根道と称され、船橋五日市ふなばしいつかいち村で成田道に合流する。平安末夏見なつみ御厨(船橋御厨とも)の一部になったと推定され、応長元年(一三一一)一二月二〇日の下総国船橋御厨六ヶ郷田数(船橋文書)に「たかね郷」とあるものの、同文書は検討を要する。地内高根こうげん寺より出土の元亨四年(一三二四)銘、観行かんぎよう院の康暦元年(一三七九)銘の武蔵型板碑など室町時代にわたり十数基の板碑がある。

高根村
たかねむら

[現在地名]中里町高根

南北二区に分れ、南を上高根かみたかね、北を下高根といい、「其の間十丁を隔つ」(新撰陸奥国誌)。南は尾別おつぺつ川を境として尾別村、北は薄市うすいち村、東は尾別山・薄市山が迫る。

寛文四年(一六六四)弘前藩は行政区の変更を行い、津軽郡を三庄に分け、さらに遣に細分した。田舎いなか庄七遣のうち、下の切遣代官所支配村々のなかに「黒崎」があり、「下高根は元黒崎村と称した」とある(中里町誌)。しかし正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳には記載がない。「津軽歴代記類」貞享二年(一六八五)に「大森、黒崎、五所川原、藤崎、右四ケ所へ御蔵立」とあり、国日記貞享四年一一月八日条に「去月廿二日姥萢村之百姓共御年貢高根御蔵九十二俵積立」とある。「平山日記」貞享四年に「其外御郡中に村名改並文字直り多分有之候」とあり、この時期に村名が変更されたとも考えられる。

高根村
たかねむら

[現在地名]館林市高根・西高根町にしたかねちよう松沼町まつぬまちよう

東は岡野おかの村、南は成島なるしま村、北は木戸きど村。嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案および弘願寺寺領注文案(長楽寺文書)に「佐貫庄内高根郷」とみえ、高根郷内弘願ぐがん寺領として、高根郷をはじめとする佐貫さぬき庄内の名田畠などが寄進された。弘願寺は現在の龍興りゆうこう寺に比定される。天正一三年(一五八五)一月一三日には高根郷に対し郷内百姓を還住させ、軍勢の濫妨狼藉などを停止する北条家禁制(龍興寺文書)が下されている。寛文郷帳では田方七六石四斗余・畑方二九一石一斗余、館林藩領。

高根村
たかねむら

面積:二二〇・七二平方キロ

郡の東端に位置し、北から東・南にかけては乗鞍のりくら岳の主峰けんヶ峰(三〇二六・三メートル)御嶽おんたけ山の継子ままこ(二八五八・九メートル)を結ぶ飛騨山脈が長野県との県境で、飛騨川の水源地。西は朝日あさひ村、北は千町せんちようはら高原を中心とする標高一五〇〇―二五〇〇メートル級の山々で丹生川にゆうかわ村・朝日村と境する。全面積の約九七パーセントが山林で、林業を主要産業とし、農業は畑作と畜産。

高根村
たかねむら

[現在地名]瑞穂町高根

狭山さやま丘陵を挟んで石畑いしはた村の北に位置し、集落は同丘陵の北麓に沿って発達。東はぼう村および二本木にほんぎ村、西は富士山ふじやま村、北は駒形こまがた村・二本木村。当村および富士山村・駒形村・二本木村・坊村は中世には村山党宮寺氏の名字の地である宮寺みやでら郷のうちであったと考えられ、同郷は現埼玉県入間いるま市南部を中心とし、瑞穂町北部や埼玉県所沢市の西部にも広がっていたと推定される。暦応二年(一三三九)八月一三日、足利義詮は「宮寺阿弥陀寺」に「入東郡縄竹村内伊宇土弥六跡」などを寄進(「高師冬奉書」鎌倉市立図書館蔵)入東につとう縄竹なわたけ村は「風土記稿」にみえる中野なかの(現入間市)の南方飛地の小名縄竹に、阿弥陀寺の所在は同じく大御堂に推定される。

高根村
たかねむら

[現在地名]色麻町高根

船形ふながた山の支脈丘陵の舌端に位置し、集落は長谷はぜ(高根川)の開口部にある。南は小栗山こぐりやま村、東は志津しづ村、北は月崎つきざき(現小野田町)、西は平沢ひらさわ村に接する。村名は山や丘陵が平野部に向かって突出していることに由縁するという。正保郷帳に田三二貫七九四文・畑六貫七八六文とあり、ほかに同所新田六貫一八五文がある。「安永風土記」によれば、田四三貫四八八文・畑一一貫五六九文(うち茶畑六六九文)で、蔵入は一八貫三一文、給所は三七貫二六文、人頭三五人(うち寺一・沽却禿三)、家数三三(うち水呑一)、男八七・女八六、馬三一とある。

高根村
たかねむら

[現在地名]若葉区高根町

佐和さわ村の北にあり、東金とうがね道が通る。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高二六〇石余、町場一五間の道普請を負担。村内の街道には寛政期(一七八九―一八〇一)三八本の松が植えられていた。天正一九年(一五九一)から旗本戸田領になったとされ、寛永二年(一六二五)知行宛行状には千葉郡高根村二八九石余とある。

高根村
たかねむら

[現在地名]朝日村高根

北方の北俣きたまた(九七九メートル)大鳥屋おおとりや(九八九・二メートル)鳴海なるみ(七八〇メートル)などから流れる沢水を集めて、南西へ流れ下る高根川の最上流に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分高根村 上」とみえ、本納五八石二升・縄高一〇七石二斗七合三勺、家二八軒、「猿沢ヨリ高根迄十五里」とある。

高根村
たかねむら

[現在地名]平塚市高根

南は浅間せんげん(一八一・三メートル)を中心に山が連なり、大磯宿(現中郡大磯町)との境をなす。淘綾ゆるぎ郡に属し、東は高麗寺こうらいじ(現大磯町)、西は万田まんだ村に接する。北は平地で山下やました村との境を波多野はだの道が通る。正保国絵図に「高根」とある。近世は初め幕府直轄領、宝暦一一年(一七六一)旗本保々領となる。大磯宿の定助郷を勤め、元禄七年(一六九四)の助郷高九六石(「大磯宿助郷村高覚」県史九)。寛政三年(一七九一)には当村民が前々から高麗寺領の裏山に入り込んでいたことが判明し、同寺が訴訟を起こしている。同年四月高麗寺が本山の江戸上野寛永寺へ提出した吟味願(平塚市史二)によれば、高根村は裏山で畑を開発したり立木や枝を伐採するなどしていたという。

高根村
たかねむら

[現在地名]桂村高根

那珂川の右岸の低地と鶏足とりあし山塊の山地の間に広がる洪積台地の一画にある。東は大山おおやま村。古くは大山村に含まれていたと思われ、「水府志料」に「土人相伝て、この村いにしへ大山より分れ、地勢高き村ゆへ、高根といゝしと云。年代今知るべからず。古書中、高根の名ある事を見ず。遠き事にはあらざる歟」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「高根村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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