亀窪村(読み)かめくぼむら

日本歴史地名大系 「亀窪村」の解説

亀窪村
かめくぼむら

[現在地名]大井町亀久保かめくぼ武蔵野むさしの西鶴にしつるおか一―二丁目・みどりおか一―二丁目・つるまい一―三丁目・東久保ひがしくぼ一丁目

大井村の北西、新河岸川右岸の台地に立地。川越街道東部縦貫。亀久保とも書く。旧石器時代と縄文時代の複合遺跡である江川南えがわみなみ遺跡、縄文時代の亀居かめい遺跡などがある。天正一八年(一五九〇)鉢形はちがた(現寄居町)落城後、北条氏邦麾下の三上山城守氏郷の子息が当地に住し近隣村を開いたという(風土記稿)。慶安元年(一六四八)検地帳(普光明寺文書)によれば畑二七町九反余・名請人三五、屋敷地四町三反余・屋敷地所有者二四、ほかに寺地八反余。川越藩領で幕末に至る。田園簿では畑高一六石余、ほかに野銭永三二五文を上納。寛文元年(一六六一)武蔵野開検地帳(大井町教育委員会所蔵文書)によれば、当村の武蔵野開墾面積は畑一六町七反余(ただし各名請人の所有地合計は一八町七反余、錯誤があるか)、名請人は地蔵院を含め三〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報