久板卯之助(読み)ひさいた・うのすけ

朝日日本歴史人物事典 「久板卯之助」の解説

久板卯之助

没年:大正11.1.21(1922)
生年:明治11.4.16(1878)
キリスト異名を持つ明治大正期の反権力の自由人画家。京都の旅館長男に生まれた。商業学校に進むが,明治39(1906)年キリスト教の洗礼を受け,翌40年同志社神学校別科に入学するが,すぐに中退。社会主義に引かれつつ牧場などで労働に従事する。大逆事件(1910)後,近代思想社小集で渡辺政太郎,和田久太郎らを知った。売文社にも出入りし『へちまの花』社友になる。引き続き『労働青年』や『労働新聞』(新聞紙法違反に問われた)にも協力して労働者街や工場街で宣伝,啓蒙に努めた。この間北風会に深く関係,黒耀会展など望月桂が主唱した平民,民衆美術運動にも参加。静岡県伊豆に写生に出かけ天城山中猫越峠で凍死した。<参考文献>『民衆運動』2巻2号

(小松隆二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久板卯之助」の解説

久板卯之助 ひさいた-うのすけ

1878-1922 大正時代無政府主義者
明治11年4月16日生まれ。大正5年「労働青年」を,7年大杉栄らと「労働新聞」を発刊。以後大杉系の団体の北風会などに関係した。大正11年1月伊豆(いず)の天城(あまぎ)山に写生にでかけ,21日凍死。45歳。京都出身。同志社中退。

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世界大百科事典(旧版)内の久板卯之助の言及

【大杉栄】より

…その後,保子と別れ,野枝と一緒になる。18年亀戸の労働者街に移住し,野枝と《文明批評》(1~3月)を,和田久太郎,久板卯之助らと《労働新聞》(4~7月)を創刊。第1次大戦後,労働運動が高まっていくなかで,自主自活的労働の促進を目的とする《労働運動》を19年に近藤憲二,和田,久板らと創刊する。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」