久木野村(読み)くぎのむら

日本歴史地名大系 「久木野村」の解説

久木野村
くぎのむら

[現在地名]久木野村河陰かいん

西北流する白川左岸にあり、上流は上久木野村、下流は下久木野村、北の対岸には下中しもなか(現白水村)がある。建久七年(一一九六)一月二三日、阿蘇社大宮司宇治惟泰は大宮司職とともに南郷内の「かみくきの しもくきの」など一〇ヵ村を子息惟次に譲った。しかし、惟次が大宮司職を解任されたため、惟泰はいったん「あそとの」に譲り直したが、惟次が大宮司に還補されたため、正治二年(一二〇〇)「せうゐん」である惟次に再び譲った(同年一二月一四日「宇治惟泰譲状写」阿蘇家文書)。以後上久木野・下久木野両村は、惟次(継)・惟義・亀熊丸(惟景)・惟資・惟国へと譲られ、これらの譲与は北条氏によって代々安堵され、阿蘇大宮司家の私領として相伝された(安貞二年九月一五日「北条泰時下文」同文書など)

久木野村
くぎのむら

[現在地名]水俣市久木野

久木野川に北東から寒川さむかわ川が合流する地点の西側にあり、東は寒川村古里ふるさと村、南は越小場こしこば村、西は水俣手永の仁王木におぎ村、北はさくら川を境に湯浦手永の上小場うわこば(現葦北郡芦北町)がある。村域のほとんどは山地で、西流する久木野川の沿岸が東西に細長い盆地状をなし、そこに集落が発達している。中世末期には人吉ひとよしの相良氏と薩摩の島津氏の争奪地となり、弘治三年(一五五七)には相良氏が久木野を支配下に収め、当地での戦いで戦功をあらわした吉賀江十郎宛の同年七月一六日の相良頼房義陽感状(深水文書)がある。

久木野村
くぎのむら

面積:五一・二六平方キロ(境界未定)

阿蘇郡南部にあり、東は白水はくすい村、北は長陽ちようよう村、西は西原にしはら村、南は阿蘇外輪山により上益城かみましき矢部やべ町・清和せいわ村と接する。西から南にかけて阿蘇外輪山に囲まれ、北域を白川が西北に流れる。白川沿いに耕地が開けるが、村域の七二パーセントは山林である。南郷谷穀倉地帯で、延宝二年(一六七四)から元文四年(一七三九)にかけて片山嘉左衛門らにより三本の水路が開削され、四〇〇町歩の水田が開かれたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報