丹生沖浦村(読み)にゆうおきのうらむら

日本歴史地名大系 「丹生沖浦村」の解説

丹生沖浦村
にゆうおきのうらむら

[現在地名]香住町沖浦

さかえ村の北東に位置し、南は丹生上計にゆうあげ村、北は日本海、東は柴山しばやま湾に面し、集落は同湾の湾岸に沿って形成される。単に沖浦村ともいう。なお柴山湾を取囲む当村・丹生上計村・丹生浦上にゆううらがみ村の三ヵ村を丹生三ヵ村ともいった。また柴山湾岸の諸湊は丹生湊、あるいは丹生柴山湊などと総称されたが、もっとも賑いをみせたのは当地の湊であった。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」にみえる「にう村」は丹生三ヵ村のことと思われ、同所には丹生殿・岡本殿ほかが住していた。

文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)城主小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)出石藩主小出吉英(吉政の子)が和泉岸和田藩主に転じると岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩主に再封すると同藩領に復した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報