与那覇村(読み)ゆなぱむら

日本歴史地名大系 「与那覇村」の解説

与那覇村
ゆなぱむら

[現在地名]下地町与那覇よなは

上地ういず村の西に位置する。雍正旧記は宮古島蔵元(現平良市)より南南西二里二町一四間、上地村より宿次一〇町一五間と記している。東は上地洲鎌すかま両村に接し、北は大きな入江(与那覇湾)、西から南は海に臨む。一四世紀後半頃、平良ぴいさら東川根あがかーに一帯にあった与那覇原・川根原は目黒盛との戦いに敗れ、野崎ぬざきい美野みぬの浜(現平良市)から対岸与那覇ゆなぱの西浜に逃れ、丈なす萱原と雑木林を開いて安住の地とし、のち次第に東に移ったと伝える。はじめは与那覇原・川根原と別々の集落を形成していたが、与人の置かれた頃、与那覇村として一つにまとまったのであろう(下地町誌)。両島絵図帳に与那覇村とみえ、高六二〇石余。「球陽」尚質王一一年(一六五八)条に「始設宮古島久貝与人・与那覇与人・荷川取与人」と記しているが、与那覇原・川根原の合併はさらにさかのぼると考えられる。

与那覇村
ゆなふあむら

[現在地名]南風原与那覇よなは大名おおな

宮平なーでーら村の北東にある。ユナファ村とよぶ。絵図郷村帳に村名がみえ、琉球国高究帳によると高頭一三八石余、うち田九六石余・畠四一石余。康熙一三年(一六七四)与那覇村は宮城なーぐしく村とともに大里うーざとう間切へ移管された。「球陽」尚敬王三〇年(一七四二)条には間切境の引直しによるとある。村の伝えではこの頃大名久米原おおなくんばるに集落が移動し、その後現在地に戻ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報