宮城村(読み)なーぐしくむら

日本歴史地名大系 「宮城村」の解説

宮城村
なーぐしくむら

[現在地名]浦添市宮城みやぎ・宮城一―六丁目・屋富祖やふそ二―三丁目・内間うちま四丁目・大平おおひら一―二丁目・仲西なかにし一丁目

仲西なかにし村の北、小湾こわん川流域に位置。北は屋富祖やふす村、東は沢岻たくし村と屋取集落大平うふんだ、西は海に面する。間切集成図は「あはき川原」(小湾川)の下流右岸に宮城村と記し、集落東に橋(宮城橋)を描く。沖縄戦後、西部の耕地と原野は米軍に接収され(現牧港補給地区)、現在国道五八号(旧国頭街道)が旧村域中央を縦貫する。絵図郷村帳に村名がみえる。饒平名ノロが管轄する宮城なーぐしく之殿・饒平名ゆひな之殿があり、麦・稲四祭の折りには当村百姓が神酒を供えた。

宮城村
まーぐしくむら

[現在地名]東村宮城みやぎ高江たかえ

富久地ふくじ村の集落が移転して新設された村。太平洋に面する海岸段丘にあり、久志くし間切に属した。「球陽」尚王一四年(一八一七)条によると、大鼓でーく村の集落が移転して新設された富久地村も疲弊が激しく、死者もはなはだ多く、同年当時の人口は十数人となっていたという。こうした環境を改善するため、同年富久地村の村民が川田かーた村の東方佐安佐原さーじばるに村の移動を願出て、これを許可された。

宮城村
なーぐしくむら

[現在地名]南風原宮城みやぎ大名おおな

与那覇ゆなふあ村の北にある。丘陵に囲まれ南に開いた斜面から低地に形成された村。集落の南側を国場こくば川上流の安里又あさとうまた川が流れる。舜天の子大里大主によって村立てされたという。絵図郷村帳に村名がみえ、琉球国高究帳によると高頭一二二石余、うち田八六石余・畠三五石余。康熙一三年(一六七四)間切再編成によって与那覇村とともに大里うーざとう間切へ移管された(「球陽」尚敬王三〇年条)

宮城村
なーぐしくむら

[現在地名]与那城宮城みやぎ

宮城みやぎ島の東側に位置し、北は池味いけみ村、西は上原いーばる村。島の南側の緩い傾斜地に集落がある。絵図郷村帳に宮城島とみえる。琉球国高究帳にも宮城島とあり、高頭一二四石余、うち田三八石余・畠八五石余。里積記によれば宮城村は田畑とも下の村位。「琉球藩雑記」によれば当村の脇地頭は池宮城親雲上となっている。脇地頭は康熙一一年(一六七二)に久米村系の鄭氏(池宮城家)一一世鄭思善、同一五年に同氏一二世鄭職良、同四二年に同氏一三世鄭儀、乾隆一二年(一七四七)に同氏一六世鄭国枢、嘉慶一二年(一八〇七)に同氏一六世都通事鄭士英、道光八年(一八二八)に同氏一七世鄭啓廸、同三〇年に同氏一八世鄭為基と一貫して鄭氏(池宮城家)の系統で占められている(鄭姓池宮城家家譜)

宮城村
ぐしなーぐしくむら

[現在地名]那覇市宮城みやぐすく一丁目・宮城

北西は大嶺うふんみ村、南は具志ぐし村、東は高良たから村、西は海に臨む。現在ミヤギともよぶ。絵図郷村帳・琉球国高究帳・「琉球国由来記」に村名はみえない。乾隆二年帳では、新間切設置により豊見城とうみぐすく間切から七村を分離して小禄うるく間切に編入したことに加え、宮城村について「豊見城間切より入御検地帳表宮城村」とあり、当村が新設されたとするが成立年は不明。由来記に「具志巫火神」「具志里主所殿」や「具志祝女火神」での稲穂祭に宮城地頭が神酒・麦など供物を捧げるとあり、地名は当時存在した。「南島風土記」は検地帳には単に宮城村とあり、具志村に接しているので二村併称の例によって本来具志宮城ぐしなーぐしくと唱えたのであろうとする。

宮城村
みやぎむら

[現在地名]足立区宮城一―二丁目・おうぎ一―二丁目・江北こうほく一―二丁目・同四丁目など

荒川(現隅田川)左岸に位置し、本村部分は熊谷堤の堤外にあるが、耕地は堤を越えて北に広がる。北は沼田ぬまた村、東は小台おだい村・本木もとき村。北条氏所領役帳に吉原新兵衛の知行地として足立内「宮城堀内」七貫文がみえる。堀内は北方の堀之内ほりのうちに比定される。当地の荒川の岸には宮城宰相が居住した屋敷跡があるという(風土記稿)

宮城村
みやぎむら

面積:四八・四九平方キロ

郡のほぼ中央に位置し、東は粕川かすかわ村、南西は大胡おおご町、北西は富士見ふじみ村。北半は赤城山原野で、北端にそびえる赤城山の一峰あら(一五七一・九メートル)から流れ出す荒砥あらと川がほぼ中央部を、大穴おおあな川が西寄りを南流、また粕川村との境を赤城山小沼このから流出する粕川が同じく南流する。粕川は流域諸村の灌漑用水源として、赤城山原野は入会地として重要で、その権益をめぐって江戸時代にはしばしば係争があった。村の中央部を東西に赤城南面道路が走り、南北には県道大胡―赤城線が通る。三夜沢みよさわ赤城神社は赤城信仰の中心の社で、当地のみならず広く信仰を集め、戦国時代当地辺りを領した武将は多く神領を寄進している。

宮城村
みやぎむら

[現在地名]館山市宮城

ぬま村の西に位置し、北はかがみヶ浦に臨む。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録には宮木村とみえ、高二〇五石余(うち田一一八石余)。同一五年の里見家分限帳では里見氏家老堀江能登守(頼忠)の給知。寛永二年(一六二五)知行宛行状では当村高二四四石余が旗本石川正次に与えらている。正保郷帳でも石川領で、田高一五四石余・畑高九〇石余。元文村高帳でも石川領。享和元年(一八〇一)には家数七三(伊能忠敬測量日記)。天保二年(一八三一)には幕府領(平井家文書)で、同一三年武蔵忍藩領となり(同一四年忍藩領郷村高帳)房陽郡郷考でも同藩領で家数七六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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