与那城間切(読み)ゆなぐしくまぎり

日本歴史地名大系 「与那城間切」の解説

与那城間切
ゆなぐしくまぎり

勝連かつれん半島の北側と東方海上の四島からなり、現与那城町域に相当する。中頭方に属する。南は勝連かつちん間切、北は具志川ぐしちやー間切(現具志川市)と接する。里積記によれば首里城より屋慶名やきな村に置かれた間切番所までの距離は七里三合五勺五才(七里一二町余)

康熙一五年(一六七六)勝連間切内の九村に加え新たに二村を設けて西原にしはら間切を新設し、同年平田ひらた間切と改称し、さらに同二六年に与那城間切と改めたという(「球陽」尚貞王八年条)。ただし首里系の向氏(辺土名家)八世向国柱玉城親方朝恩が康熙一五年五月に「平田間切組分之検者」に任じられていること(向姓辺土名家家譜)、また久米村系の鄭氏(池宮城家)一二世鄭職良が同じく同年の一二月五日に平田間切池宮城村の地頭職に任じられているので(鄭氏池宮城家家譜)、平田間切への名称替えは同年の五月から一二月にかけて行われたと思われる。「南島風土記」は勝連間切から西原にしはら与那城ゆなぐすく安勢理あせり・屋慶名・平安座ひやんざ宮城なーぐしく伊計いち饒辺ぬひん・「やふつ」の九村を割き、名安呉なーぐ上原いーばるの二村を新立して合計一一ヵ村で西原間切としたとするが、定かではない。また同書は絵図郷村帳に記される勝連間切の「はんた村」について与那城間切の設置後に廃されたとし、それぞれ平安座へんざ伊計いけいの小字にある「半田原」のいずれであるかは定めがたいとしているが、「はんた村」は他の史料にはみえずはっきりしない。間切を構成する村は「琉球国由来記」「琉球国旧記」「琉球藩雑記」では西原・与那城・饒辺・屋慶名・安勢理・平安座・上原・名安呉・宮城・伊計の一〇ヵ村で、一八八〇年(明治一三年)の県統計概表では名安呉村を除く九ヵ村となっている。なお新設の間切のため江戸幕府官撰の正保国絵図をはじめとする国絵図・郷帳等に間切名はみえず、一貫して勝連間切内として把握されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報