下梨村(読み)しもなしむら

日本歴史地名大系 「下梨村」の解説

下梨村
しもなしむら

[現在地名]平村下梨

来栖くるす村の北東、庄川左岸の広い河岸段丘に位置し、対岸しま村へは籠渡しで渡った。河原から縄梯子を登って籠に取付くが、増水のときの登り降り用に小舟が一艘置いてあった(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。北は高い位置に小来栖こぐるす村・松尾まつお村が続く。元禄一五年(一七〇二)加賀藩幕府へ提出した国絵図の写(川合家蔵)に「正保以来郷帳御絵図には平村と御座候」とあり、貞享五年(一六八八)の百姓所持鉄砲書上帳(瑞願寺文書)にも平村とあり、江戸初期は平村と称していた。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「下梨」の内に修理亮乗資・藤井与三兵衛・北名道宗がみえ、当地瑞願ずいがん寺に伝わる同申定の写には、それぞれ「当時下梨村市助先祖を修理亮と申由承申候」「下梨道場庄右衛門先祖」「当時下梨村三右衛門先祖」の書入れがある。

梨村
しもくしなしむら

[現在地名]琴平町下櫛梨、善通寺市櫛梨町

琴平山の北東、金倉かなくら川右岸の平地と櫛梨山の南麓に位置する。下櫛無とも書く。中世の「櫛無保下村」と称された地と推定される。江戸末期に櫛梨村が当村と上櫛梨村に分村。「西讃府志」によれば高五九二石余、田畝五七町一反余、うち畑六町五反余・屋敷二町余、租税は米三〇二石余・大麦三石余・小麦一石余・大豆五石余、灌漑水は金倉川の野田のだ横井総社そうじや池など一二ヵ所の出水に依存、家数一二〇・人数四五〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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