下新井村(読み)しもあらいむら

日本歴史地名大系 「下新井村」の解説

下新井村
しもあらいむら

[現在地名]所沢市下新井・西新井町にしあらいちよう東新井町ひがしあらいちよう・こぶしちよう若松町わかまつちよう並木なみき北原町きたはらちよう旭町あさひちよう御幸町みゆきちよう

所沢村・所沢新田の東にあり、南西あずま川が東流する。入間いるま山口やまぐち領に属した。土地が高くしばしば旱損を受けるという(風土記稿)。田園簿では高六七石余で皆畑。幕府領以後幕末まで同じ。検地は寛文八年(一六六八)・延宝五年(一六七七)・同六年・天和三年(一六八三)・元禄三年(一六九〇)に行われた(元文二年「村明細帳」鈴木家文書)

下新井村
しもあらいむら

[現在地名]岩槻市南下新井みなみしもあらい

飯塚いいづか村に北と東を囲まれ、西は真福寺しんぷくじ村・浮谷うきや村。岩槻台地の舌状地と谷地に立地し、集落は台地上に形成されている。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿に新井村とみえ、高は田方一八九石余・畑方二四三石余。「寛文朱印留」にも新井村とあるが、延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)には下新井村とみえ、家数二六(本百姓一七・水呑九)、人数一七五、岩槻藩の地方支配は下郷しもごう筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高四三二石余、小物成は野銭永一貫一四〇文・藍瓶役鐚二貫四四八文、見取場畑二反余。

下新井村
しもあらいむら

[現在地名]大利根町北下新井きたしもあらい

平野ひらの村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。寛永八年(一六三一)の寄合帳(大塚家文書)では「武州騎東郡川辺之内下新井村」、同一八年の検地帳写(田代家文書)には「武蔵国騎東郡川辺之内下新井村」とみえる。田園簿によると田高二五五石余・畑高三四七石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領で続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。弘化元年(一八四四)より新田三石余が幕府領として加わる(「郡村誌」など)。助郷は中田なかだ宿(現茨城県古河市)栗橋くりはし宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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