下庄村(読み)しものしようむら

日本歴史地名大系 「下庄村」の解説

下庄村
しものしようむら

[現在地名]板野町下庄

西中富にしなかとみ村の西にあり、北は宮川内谷みやごうちだに川を隔てて古城ふるしろ村、南西中窪なかくぼ村。ほぼ東流する宮川内谷川は蛇行がはなはだしく氾濫を繰返してきた。村名は板西下ばんざいしも庄にちなむ。慶長二年(一五九七)の分限帳には下庄とみえ、三一九石余が柏木勝左衛門知行分。村方之事(吉野家文書)によると天正一七年(一五八九)の検地では川成残高三二二石余、慶長七年は三〇九石余、元和五年(一六一九)には三二九石余、寛永九年(一六三二)には二九〇石余であった。正保国絵図では高三二二石余、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳ではこの高すべてが畠方で、水損と注記される。

下庄村
しもしようむら

[現在地名]大原町下庄町しもしようまち

下町しもまち村の南に位置し、吉野よしの川右岸に立地。対岸宮本みやもと村、北西小原田おはらだ村。「東作誌」によれば讃甘さのも庄に属し、宇喜多氏時代に小原田村などを分村し、明暦三年(一六五七)には宮本村を分村した。慶長八年(一六〇三)森忠政の本隊一行は美作入国に際し、宮本村南東の杉坂すぎさか(釜坂峠)を越えて当村に入り、七郎右衛門宅に止宿。七郎右衛門は川上かわかみ村の喜左衛門とともに鍬柄一〇〇挺ずつを進上したという(森家先代実録)正保郷帳に村名がみえ、田六三五石余・畑一九四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二一二石余・開高一九石余、村位は上。

下庄村
しもしようむら

[現在地名]倉敷市下庄

松島まつしま村の東、東庄ひがししよう村の南に位置する。もとは東庄村のうちで、元禄(一六八八―一七〇四)期より独立した。元禄備中国絵図では高一千九八七石余、元禄一二年の備中一国拾壱郡村高帳(石井文書)では高九四六石余は庭瀬藩領(板倉氏)元禄郷帳では「御料・戸川玄蕃知行・御料」と記され、一時的に幕府領や旗本撫川戸川領となる。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記によれば一千四八二石余が幕府領、五〇四石余が遠江浜松藩領。「備中村鑑」では九四六石余・一千四〇石余と二筆に記され、両方とも幕府領。

下庄村
しもしようむら

[現在地名]出雲市下横町しもよこちよう

神戸かんど川右岸にあり、東は松枝まつがえ村、北西は横引よこびき村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高三九九石余、寛文四年(一六六四)の本田高三八七石余・新田高三石余。「雲陽大数録」では高三一〇石余。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西五町・南北七町、田一六町三反・畑五町三反、家数三六・人数一八八、牛三、大工二・木挽一、渡船一と記す。明治八年(一八七五)横引村と合併して下横村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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