下嵯峨村(読み)しもさがむら

日本歴史地名大系 「下嵯峨村」の解説

下嵯峨村
しもさがむら

[現在地名]右京区嵯峨〈朝日あさひ町・いしつぼ町・伊勢いせかみ町・うめ町・折戸おりと町・甲塚かぶとづか町・苅分かりわけ町・北堀きたぼり町・五島ごとう町・蜻蛉尻とんぼじり町・中通なかどおり町・中又なかまた町・中山なかやま町・罧原ふしはら町・明星みようじよう町・柳田やなぎだ町〉

北は上嵯峨、西は天龍寺門前てんりゆうじもんぜん、東は生田おいた高田たかた、南は大堰おおい(桂川)を挟んで上山田かみやまだ(現西京区)の各村に接する。大堰川の北岸に位置したため川端かわばた(山城国高八郡村名帳ほか)とも、下嵯峨川端村・嵯峨川端村とも称した。

古代は葛野かどの川辺かわのべ(和名抄)に属し(京都府地誌)、嵯峨野の一部を占める。弘仁年中(八一〇―八二四)前後成立とされる山城国葛野郡班田図(成簀堂文庫蔵)によると条里制の施行された地と考えられる。大堰川に面した農村で、平安京と嵯峨あらし山・小倉おぐら山を結ぶ下嵯峨街道(三条街道)が中央部を東西に通じており、人馬の往来も頻繁であった。

交通の便よく、大堰川に接する地の利をいかし、大堰川上流の山国やまぐに(現京都府北桑田郡京北町)が禁裏御料となり、山国材が筏で流下して禁裏に貢納されるや、天龍寺門前村の筏改所を中心に、筏材木の揚陸地として下流梅津うめづとともに栄え、問丸が成立する。「忠富王記」には明応六年(一四九七)六月一六日条に「嵯峨問丸以荷主申云、自山国運送材木、丹波国□□河内十市ト申在所押並云々、則以伝奏、伊勢備中ニ被仰出云々」とあり、嵯峨問丸の活動が知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報