下吉田(読み)しもよしだ

日本歴史地名大系 「下吉田」の解説

下吉田
しもよしだ

「勝山記」天文二年(一五三三)条に「下吉田」とみえる。吉田(上吉田)の北にあたり、地内を北流する間堀まぼり川とみや川が合流、その合流点のやや下流新倉あらくらから東流してきた入山いりやま川が合流する。同書に天文四年一月四日夜火災により三名の死者が出たとみえる「モリ」は間堀川と宮川の合流点付近右岸の微高地、現字古森こもりに比定され、同八年に道者の宿にあてられた「法花堂」は、古森の宮川対岸に字法華堂ほつけどうとして残る。「妙法寺記」には永禄二年(一五五九)一二月七日の大雨で発生した雪代水で法華堂とともに「中村」の在家すべてが押流されたとあり、中村なかむらの字名は字法華堂の南、宮川右岸に残る。江戸時代の家並(下吉田村上組・下組)は富士道に沿って間堀川・宮川の間に上吉田の北に続いて整然とあったが、戦国期までは宮川の河原や微高地に集落が点在する景観であったと思われる。天文四年八月二三日武田信虎と北条氏綱との合戦で下吉田は焼失、同六年の冬は寒気がことのほか厳しく、下吉田の人々は屋敷の周囲のクネ木をすべて切り暖を取った。

下吉田
しもよしだ

[現在地名]上田市大字芳田

千曲川畔の大屋おおや村から矢沢やざわ村に通ずる道を、段丘上に出た辺り、この道に沿った集落。江戸時代には下吉田村とよばれた。

宝永三年(一七〇六)の小県郡吉田村指出帳(上田藩村明細帳)には、下吉田分として、「村高八拾八貫九百三拾文」で切起高のみ五四石四斗四升九合と記されている。このうち田は三町五段余、畑二町三段余。百姓家数二七軒、人数男九二人、女八一人となっている。

同年、上田藩へ願い出た居屋敷年貢免除願(矢島文書)によると、元和二年(一六一六)真田信之より、下深井しもふかい(現小県郡東部町大字かのうと下吉田村の者が、本海野もとうんの宿(現小県郡東部町)近くの古新田に移住を命ぜられたが、田畑への道が遠くなるほか、種々困難な事情のあることを理由に、中止方を願ったが聞き届けられず、海野のうち高六石九斗一升一合と、四七軒の居屋敷年貢を免除される特典を認められ、元和九年になり古新田が成立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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