上野(三重県)(読み)うえの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野(三重県)」の意味・わかりやすい解説

上野(三重県)
うえの

三重県中西部にあった旧市名(上野市)。現在は伊賀(いが)市の中央部から西部を占める一地域。1941年(昭和16)上野町と小田(おだ)、城南(じょうなん)、花之木(はなのき)、長田(ながた)、新居(にい)、三田(みた)の6村が合併して市制施行。1950年(昭和25)府中(ふちゅう)、猪田(いだ)、中瀬(なかぜ)、友生(ともの)の4村、1955年花垣(はながき)、依那古(いなご)、比自岐(ひじき)、神戸(かんべ)の4村、1957年古山(ふるやま)村を編入。2004年(平成16)伊賀町、阿山(あやま)町、青山町島ヶ原(しまがはら)村、大山田(おおやまだ)村と合併、伊賀市となる。旧上野市は上野盆地の中心都市で、名称の「上野」は中世からの地名、江戸期の城下町名を引き継いだ。市街地と城は盆地内ではやや高燥な平地に展開し、地名の由来ともなっている。JR関西本線と伊賀鉄道伊賀線、近畿日本鉄道大阪線が通じ、名阪国道と国道25号、163号、165号、368号、422号が走る。古くから伊賀国の中心地であったが、1585年(天正13)羽柴(豊臣(とよとみ))秀吉筒井定次(つついさだつぐ)を封じて上野城を修築させた。1608年(慶長13)徳川家康は東西交通の要(かなめ)の一つであるこの地に、大坂の豊臣勢に対する軍略上から、築城に長じた藤堂高虎(とうどうたかとら)を配して本格的な市街地を形成させた。天守竣工(しゅんこう)直前に台風のため倒壊し、その後の一国一城令によって津藩藤堂氏は津を本城としたため、再建されることはなかった。上野城跡(国指定史跡)には高さ30メートル、わが国最高といわれる本丸石垣がいまも残り、実戦的な城のおもかげをしのぶことができる。現在の3層の天守がある白鳳(はくほう)城は1935年の建造で忠実な復原ではない。周囲は上野公園となっていて、1999年に歴史民俗資料館が開館している。上野は伊賀忍者でも知られ、高虎以後も忍者は登録、扶持(ふち)制となった。家康の伊賀越えを助けた伊賀者200人はその後幕府に召し抱えられ、隠密(おんみつ)も勤めた。上野丸の内の上野公園(白鳳公園)内の伊賀流忍者博物館には忍者屋敷があり、資料が展示され、忍術の実演が行われる。

 明治以降、幹線交通路から外れて産業的にも農村都市として推移し、組紐(くみひも)や和傘、伊賀焼など伝統工芸が知られる程度であったが、1965年以降、大阪と名古屋を最短距離で結ぶ名阪国道の開通で工場の進出が続き、県下では北勢に次ぐ工業化の著しい地域に変容した。繊維、電機の工場が多い。松尾芭蕉(ばしょう)の出身地で、生家、俳聖殿(国指定重要文化財)、蓑虫庵(みのむしあん)、記念館などゆかりのものが多い。また荒木又右衛門(またえもん)の伊賀越仇討(いがごえあだうち)の遺跡鍵屋の辻(かぎやのつじ)がある。国指定史跡に伊賀国分寺跡、国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡、藩校の旧崇広堂、浄土信仰ゆかりの廃補陀落寺(ふだらくじ)町石、御墓山(おはかやま)古墳があり、城之越(じょうのこし)遺跡は名勝・史跡。高倉神社本殿、絹本著色『藤堂高虎像』(西蓮寺蔵)など国指定重要文化財も多数ある。果号寺のシブナシガヤ、高倉神社のシブナシガヤは国の天然記念物。10月に行われる上野天神祭は近世初期に始まり、鬼行列や9基の山車(だし)(だんじり)で知られ、「上野天神祭のダンジリ行事」として国の重要無形民俗文化財に指定される。また、だんじり会館においてだんじりの常設展示を行っている。

[伊藤達雄]

『『上野市史』(1961・上野市)』『福永正三著『秘蔵の国』(1972・地人書房)』


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