上講武村(読み)かみこうぶむら

日本歴史地名大系 「上講武村」の解説

上講武村
かみこうぶむら

[現在地名]鹿島町上講武

みず浦の南に位置し、西は南講武村。北に御的おまと山、東に大平おおひら山、南東御岳みたけ山がそびえ、村の中央を多久たく(講武川)が西流する。当村と南・北の講武村は中世には当地にあった円福寺えんぷくじ堂という祠から円福寺(延福寺)村と称していた。文安年中(一四四四―四九)と推定される年月日未詳の幕府番帳案(蜷川文書)みえる「佐々木延福寺対馬守」は、宍道氏と同じ佐々木氏の一族で、延福寺えんぷくじを領有したところからその地名を名乗ったものと思われる。永享二年(一四三〇)一一月一日の杵築大社三月会一番饗二番饗神物引付(北島家文書)には「加賀庄内延福寺内遠江殿」とみえ、加賀かか庄に含まれていた。永禄一三年(一五七〇)頃大野氏は毛利氏に延福寺二〇〇貫などを知行してきた旨報告している(五月一〇日「大野氏知行書立覚」三木家文書)。元亀元年(一五七〇)一一月二八日、毛利輝元は宇山久信に延福寺の内で一〇〇貫を与えている(「毛利輝元書状」閥閲録)。同二年大野治郎左衛門は輝元から円福寺の内二〇〇貫の地を安堵されている(七月二五日「毛利輝元安堵状」大野殿諸感状写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報