上真桑村(読み)かみまくわむら

日本歴史地名大系 「上真桑村」の解説

上真桑村
かみまくわむら

[現在地名]真正町上真桑

現真正町の北東部に位置し、東と西を糸貫いとぬき川とさい川に挟まれた平坦地に立地。古代東山道が東西に抜けていた。「濃飛両国通史」は美濃国神名帳所載の物部明神(現物部神社)が字本郷ほんごうに鎮座すること、当地の守屋氏が物部氏の由縁を称していることなどから、古代の本巣郡物部もののべ(和名抄)の地と推定している。中世には真桑庄(郷)が成立。戦国期には真桑郷は領家方と地頭方とに分れていたが、領家方はのち上真桑村、地頭方は下真桑村となったようである。豊臣秀吉の家臣一柳末安(直末)は、真桑郷井水路の普請を上まくわ村・下まくわ村ほか三村に命じている(年未詳四月六日「一柳末安書状」安藤鉦司氏所蔵文書)。当村の支配は秀吉政権下では一柳末安以後、古田秀勝・山田出羽守・大谷吉継と継承された。関ヶ原の合戦後は幕府領、明和七年(一七七〇)から大垣藩預(「小川氏覚書」小川文書)慶長郷帳に村名がみえ、高一千四六二石余。正保郷帳では田方一千二六七石余・畑方一九四石余。延宝五年(一六七七)検地帳(小川文書)では田方一一八町八反余・高一千四七六石余、畑方一九町二反余・高一六〇石余、屋敷地八町九反余、百姓屋の周囲は藪で二町四反余・高一〇七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報