上久世庄(読み)かみくぜのしよう

日本歴史地名大系 「上久世庄」の解説

上久世庄
かみくぜのしよう

西大路九条から西へ、西国さいごく街道(現国道一七一号線)かつら川を渡河した付近、ほぼ近世の上久世村村域に比定される一円型の荘園。いわゆる西岡にしのおか一一ヵ郷の一で、暦応三年(一三四〇)一一月作成の上久世庄絵図(教王護国寺文書。以下教護と略)によれば、東は近衛殿御領、西は近衛殿御領革島かわしま(現西京区)、南は下久世・東久世(築山)・本久世(大藪)寺戸てらど、北は伯殿御領・日野殿御領と隣接する。古代の「訓世郷」(和名抄)が開発の進展に伴い上久世庄・下久世庄・東久世庄・本久世庄などに分れていったものであろう。

上久世庄は永仁七年(一二九九)三月八日の重弘名名主職宛行状案(東寺百合文書。以下東百と略)に「上久世御庄重弘名」とみえるのが早い。この時期、久世上下庄は北条得宗領で(「貞和二年一二月二七日東寺政所上久世庄定書案」東百)、元弘三年(一三三三)鎌倉幕府の滅亡に伴い久我家領となった(「八月二一日上久世庄公文職補任状案端書」東百)。しかし建武三年(一三三六)七月一日、足利尊氏は久世上下庄の地頭職東寺とうじ鎮守八幡宮に寄進し(「久世上下庄地頭職寄進状案」東百)、戦国期まで東寺領荘園の中核として東寺の寺院経済を支えた。この時寄進された地頭職は、後代の史料から判断して、領家的立場をも含むものと思われる。

上久世庄の面積は元亨四年(一三二四)から永正四年(一五〇七)まで、多少の変動はあるが平均五七町四段(東百)、田畑の集中した一円型の荘園であった。また庄地は百姓名八名、庄官名や佃などからなる一色田、その中間的な性格をもつ有正名などから構成されていた。荘内には蔵王ざおう堂と綾津あやつ大明神(綾戸あやと社)があり(「上久世庄絵図」教護)、ともに現存する。

得宗領時代の元徳二年(一三三〇)、檀上兵衛二郎行政が下司職に補任されたが(「元徳二年一二月二日上久世庄下司職補任状案」東百)、久我家領となり、元弘三年刑部入道道法が公文職に任命された(「八月二一日上久世庄公文職補任状案」東百)。彼は前年の正慶元年(一三三二)八月三日に解任された胡摩兵衛入道教意の後任で、当庄が東寺鎮守八幡宮へ寄進されたときも寺家から公文職を安堵され、以後下地支配の中心となった。道法が暦応三年一一月、東寺に進上した荘図(教護)には、公文殿屋敷が庄の東北隅にある。

建武三年(一三三六)九月五日の尊氏御教書(東百)で、公文大弐房覚賢(真板氏の祖)に上久世庄領家職半分(田地一〇町六段余・畑地五段余)が地頭職として宛行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報