三田尻村(読み)みたじりむら

日本歴史地名大系 「三田尻村」の解説

三田尻村
みたじりむら

[現在地名]防府市車塚くるまづか町・自力じりき町・松原まつばら町・岡村おかむら町・中央ちゆうおう町・駅南町えきみなみまち石が口いしがくち一丁目・協和きようわ町の各全域、および栄町さかえまち一丁目・天神てんじん一丁目・戎町えびすまち一丁目・八王子はちおうじ一丁目・東三田尻ひがしみたじり一―二丁目・三田尻一―二丁目・鋳物師いもじ町・お茶屋町ちややまち三田尻本町みたじりほんまち華浦かほ一―二丁目・桑山くわのやま一―二丁目の各一部と、大字三田尻村みたじりそん

北西に桑山を抱え、北は西佐波令にしさばりよう、東は東佐波令ひがしさばりよう、西は伊佐江いさえ仁井令にいりよう、南は新田しんでんの各村に囲まれる。村内南東部に藩の御船倉があり、その北と西に三田尻町が発達した。萩藩領で三田尻宰判に属した。

康応元年(一三八九)三月、将軍足利義満に随従してこの地に下った今川了俊は、その「鹿苑院殿厳島詣記」に「みたじりといふ松原に御旅所をたてたり」と記し、付近の情景を記している。海岸沿いに鞠生松原まりふのまつばらとよばれる美しい松原の続く港として知られていたようである。了俊はこれより先、応安四年(一三七一)九州探題として下向する途次には、この松原から桑山辺りの様子を「そのにし南にさしむかひて、一重なる松山の侍るをくはの山とぞいふ、ふもとに松原とをくなみ立て、あたりはかたはまとてしほやく所なり」と記している(道ゆきぶり)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報